龍が如くSS

龍の目(桐真)

 決して折れることのない不滅の眼差しが、真正面から射抜いてくる。

 1、2、3。まるでダンスでも踊っているかのような軽快さに、しかし勢いと重さを乗せて、目の前の男を翻弄する。上から、下から、横から、予測の難しい奔放な攻撃を、男は的確に捌きながらも、僅かな隙を見逃さない。男めがけて高く振り抜いた右足に沿うように拳を押し出す。寸でのところで上体を反らすことでその拳を避け、ついでに喉から「ヒヒッ」と笑い声を漏らす。崩れた重心をそのままに地面に手をついて、回転しながら男の脛の辺りへ蹴りを繰り出しても、やはり避けられた。勢いを利用して体勢を整える。間合いを取って、お互いに大きく息を吐く。

「ゴッツいのぉ、桐生チャン」
「…………」

 肩で息をする相手は、今この時も自分から目を離さない。
(また、その目ェかいな……)
 自分と互角――いやそれ以上の桐生との喧嘩は、一瞬たりとも気を緩めることができない。まして闘いの最中に相手から視線を外すなど以ての外。桐生もそれは同じなのだろう。喧嘩中は、必然的に桐生と何度も視線を絡ませる。バチリと音がしそうなほどの熱量とともに。
 以前に桐生の目は光を失っていないと言った。それは2年ほど経った今でも嘘になっていないし、そんな桐生の目を好ましく思っている。それはもう、嫌になるほど。
 桐生の目は真っ直ぐだ。ただ真っ直ぐなだけでなく、様々な澱を沈めて尚、不屈だ。これまでに幾度となく大切なものを得、そしてその多くを失い、何度も折れかけただろう。しかし絶対に光を失わなかった。継ぎ接ぎの意志は相まみえるたび強固になる。どんなことがあっても、この男は得ようとする。守ろうとする。くらくらするほどの馬鹿正直な生き方だ。
 息を整えた桐生が、ぴんと張り詰めた眼差しをこちらに向ける。冷たいほどに熱い、闘志と、興奮と、そして少しの。
(わかりやすいやっちゃ。ホンマ)
 世界で5本の指に入るほどわかりすいこの男の、自分に向ける眼差しの意味に気づけないほど鈍くはない。めらめらと奥に燻るような思いには覚えがある。何故なら自分もまた、この男に同じ感情を抱いている。
 桐生がアスファルトを蹴って、こちらの懐に潜り込んできた。咄嗟に顎を打とうと持ち上げた膝はいなすように右手で横へと払われ、何も身につけていない胴へ桐生の拳がめり込んだ。まともに食らった。せり上がってくる胃液だか血だかをぐっと飲み込み、よろけてたたらを踏んでしまうついでに後ろへ下がった。桐生がそろそろ終わりかと言いたげな視線を寄越す。まだ終われるわけがないだろう。挑発的な笑みを浮かべれば、桐生は見慣れた構えを取った。話が早い。
 拳の隙間から桐生がじっと見据えてくる。視線の中に含んだ思いは、喧嘩が始まるときからずっと変わらない。否、もっと前からだ。明け透けで隠そうともしていないのかもしれない。
 ごめんだった。多少の種類の違いはあれど、自分を強く求める桐生の目は、他の――桐生が守り、そして時に守りきれなかった多くの大切なものを見るときと同じだ。その眼差しを注がれては、まるで自分が桐生の大切な、輝いていて、美しくて、慈しむべきものにでもなったような気持ちになる。馬鹿らしい。その目を向けるべきは自分ではない。
 自分があの目に弱いことは十分にわかっている。だからこそ、のらりくらりと先延ばしにしてきたわけだが、そろそろ潮時だろう。瞳の奥の情動は濃度を増している。この喧嘩が終わったときか、次に会ったときには、桐生はその胸中を開示する。元々回りくどいことが苦手な男だ。自分を本気で得ようとするこの男から、逃げられる自信は正直、ない。

「兄さん、」

(あ、)
 まずい。目算を誤った。桐生は喧嘩を終える前に、今この時に、決着を付けようとしている。なんて我慢のできない男だ。考えるより前に、自分の足が地を蹴って、持ち前のバネで高く飛び上がる。虚を突かれた桐生の元へ着地するように高度を下げると、桐生はあっさりと仰向けに倒れ込んだ。背に昇る応龍が軋む音がする。倒れた桐生の腹に馬乗りのまま、その目をじっと見つめる。

「……!」

 上体を傾げて瞼を降ろさぬまま桐生と唇を重ねれば、大きく見開いた瞳が動揺で揺れている。気分がいい光景だった。
 そう、この男はどこまでも鈍い奴で、こちらの思いになどまったく気づいていないことこそが、自分のアドバンテージだった。不意を突くのは容易だ。動揺から醒めやらない桐生を眺めて、自分の笑みが深くなるのを感じる。
 龍の目にとことん弱いのだから、きっとこの男の求める願いを、これからも受け入れてしまうのだろう。しかし負けっぱなしは自分の性に合わない。どんな隙でも見逃さず、貪欲に勝利を望んでこそ真島吾朗というものだ。

「桐生チャン、よぉ聞けや」

 組み敷いた男の間の抜けた顔が目に映る。まずは1つ、勝ち星をもぎ取ろう。

未読(桐真)

 眠らない街神室町。日が落ちた程度ではこの街の明るさを奪うことなどできない。太陽光よりもギラギラと目に痛いネオンは、しかし今日の自分の気分ではない。自然と人のいない方、より静かな暗がりへと足が向かう。
 左手に代わり映えしない工事現場のバリケードを眺め、その先にある西公園が見える。げっ。思わず顔を顰めてしまった。

「おお、桐生チャンやないか」

 西公園でいつも火が焚かれているドラム缶の、その傍らには常日頃自分を追い回す兄貴分の姿がある。手袋越しの指に吸いさしの煙草を挟んで、幾分かリラックスした姿勢だ。しかしこの男のスイッチは何がきっかけで入るかわからない。今日は暴れる気分でもないのだ。喧嘩を売られる前に、さっと踵を返す。

「ちょ、ちょお待てや。今日は喧嘩する気分やないねん。なんもせえへんから、休憩に付き合うてくれんか?」

 所構わずハイテンションで喧嘩を吹っかけてくる真島の珍しい態度に驚いて、返した踵を元に戻す。こちらをじっと見るその眼差しには覇気がなく、眉尻も戸惑い気味に下がっている。約束を違える男ではないから、この休憩で何か手荒なことが起こる心配はなさそうだ。こちらの反応が過剰とでも言いたげな声色には納得がいかないが、好奇心が勝って「いいぜ」とだけ短く返事した。

 真島と同じようにドラム缶の側に立って煙草を口にくわえると、隣から火のついたライターを握った手が伸びてくる。面食らってぱちりとひとつ瞬いたが、厚意に甘えて顔を近づけた。吸いなれた匂いが鼻をかすめる。
「アンタに接待してもらえるとはな」
「こうでもせんと、桐生チャン帰ってまうかと思ってなあ」
 わざとらしくしなを作った声で真島が答える。ご機嫌取りの類を嫌うこの男のことだから本心ではないとすぐにわかる。自分をもてなしたい故の行動だろうか。時折見せる真っ直ぐな好意に、思わず顔が綻ぶ。
 ライターをしまった真島が紫煙を吐き出しながらぽつりと話しはじめる。「今日な、」と呟くような声がする。
「なんか寂しいねん。事務所だーれもおらんし」
 ぼんやりと焚き火を見つめる瞳に感情は読み取れない。本当に寂しがっているかどうかは伺い知ることができないが、真島がこうして寂しさを口にするのは度々ある。冗談めかしてるようにも、本気で寂しさを埋めたいようにも聞こえる。

「せやから、桐生チャンがおってくれて助かったわ」

 こちらを見てにっと笑う。喧嘩中にいつも見ているはずなのに、初めて見たような笑顔だ。実際に落ち着いた状況下で見たのは初めてだったのかもしれない。歯並びが綺麗だとか、目を細めると涙袋が目立つとか、細かいことに気づいた。ひと呼吸置いて発言の意図を噛み砕き、隣にいるのは自分以外の誰でもいいと言われているようで、項の辺りがちり、と焼ける気分になる。口にくわえている煙草をひと吸いして、燃えて短くなるそれに自分を重ねた。「自分は特別」と言われたかったのだろうか。どうかしている。いつも通りじゃないこの場なら、調子も狂うというものだ。真島がすっかり短くなった煙草をドラム缶の中に捨てる。自分を煙草に重ねたばかりの身には、なんだかその気のない動作が無性に物悲しい。
 ドラム缶を名残惜しむようにじっと眺めてしまい、こちらを見つめる真島の視線にやっと気づいた。少し首を傾げて、覗き込むように不躾な好奇心を浴びせている。
 視線の真意を図りかねて問いかけようと口を開いた、その隙を縫うように、真島の手がこちらの口元に伸びてくる。唇に挟んでいた煙草を器用にさらっていく指がスローモーションに見えた。革手袋についた真新しい傷は多分、この間の喧嘩のものだ。
 煙草を攫った指はそのまま真島の口元へと帰り、今まで俺の口に収まっていたフィルターは、真島の唇に差し込まれている。自然に流れていく動きからどうしても目が離せなかった。金縛りにでも遭ったように、指の一本も動かせない。声も出せない。俺の煙草を吸い込む真島を見つめた。瞼が伏せられ、普段は目立たない睫毛が焚き火の炎にちらちら揺れる。眼差しはなぜか科学者のような真剣さをたたえている。瞼を完全に伏せて味わうように深く息をついた。口の端から細く煙が漏れている。
 再び煙草が真島の指に挟まれたと思ったら、すとん、とそれを俺の口に差し込む。返された。吸い慣れた味の中に、僅かに真島が漂わせる匂いが混ざる。
「……なんだよ」
 金縛りから解放され、やっとのことで絞り出した一言は、幸いにも震えていたりなどはしなかった。目の前の男はすいっと片方だけの目を細める。焚き火に向けていない右目は暗く灯されているが、どことなく優しい色合いをしていると思った。
「ん、桐生チャンの味はどんなんやろなー、と思って」
 薄く開かれて弧を描いた唇から舌が覗いている。当たり前だが二股に分かれていたりはしない。同じ人間のはずなのに、真島がその胸元に抱える白蛇のような、底なしの食えなさを感じた。
 直後、真島によって発された「ふああ〜」という気の抜けた欠伸によって、空気が完全に弛緩する。
「なんや眠なってきた。帰って寝るわ」
 あまりに唐突な展開に一言も発せないでいるこちらに目もくれず、あっという間に公園から歩き去った真島は振り向かずに片手だけを挙げて、「ほな」とだけ言った。やっぱり一瞥もしないまま、その背は見えなくなる。
 真島のいなくなった方向の薄明かりを眺めて、ドラム缶に吸いさしを放り投げる。半ばまで吸われた煙草は炎に包まれ、姿を消した。煙草が収まっていた唇がじんじんと痺れる。

「読めねえなあ……」

 なんの勝負もしていなかったはずなのに、下手すると喧嘩よりも強く敗北感を味わわされた気がする。
 ともすればぐらりと来そうな熱さをぐっとこらえた。焚き火の熱にじりじりと頬を焼かれた、のだと思う。

難しい人(冴島の話をする真と西田)

「親父は、冴島の叔父貴の他の兄弟のことどう思っていらっしゃるんですか」

 扉を一枚隔てて、少し音量を落としたジュウジュウと肉の焼ける音と、途切れることのない賑やかな声が響いてくる。
 馴染みの焼肉屋の一角。個室として設えられたそこで、自分の親父――カタギ風に言うならば上司にあたる人と、面と向かって座っている。見る者が見れば萎縮しそうな光景であるし、自分も目の前の人物に気圧されることは多々あるが、こうして二人きりで食事をすることは一度や二度ではない。少なくとも他の組員よりは上手くやれている、と思う。
 正面に座って網の上の肉を弄くり回しては俺の皿に適当にぽいぽい投げ込んでいた親父は、今は片方だけの目を細めて、怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでいる。並の人間であれば半殺しを覚悟するかもしれない顔つきであるが、これもやはり慣れたもので、少なくとも殴りかかるような機嫌ではないはずだ。あまりびくびくし過ぎても親父の機嫌を損ねる。あえて平然とした素振りで肉と米を一緒に口へと運んだ。

「お前、たまーに意味わからんこと聞きよるなあ」
「そうですかね……」

 なんとも言えない顔つきのまま口を開いた親父は、返答ともとれるようなとれないような言葉を吐き出した。質問した自分としてはあまり変わったことを聞いたように思っていなかったが、そう言われると自信がなくなってくる。「答えたくなければ、大丈夫ですので」と言うと、「別にええけど」と返ってきた。今日はちょっと機嫌が良さそうだ。
「まあ、聞いたことはあるけどな」
 それだけ言って、目線を斜め上に向けて閉口する。言葉を探しているようだ。言いあぐねているというよりは、ピンと来ていないらしい。
「他の兄弟分……みたいなのって、嫌……だったりしないんですか」
 ぼんやりとした質問にイライラし始めた様子だったので、説明を付け足す。さすがにこのようなことをはっきり聞くのは躊躇ったが、主旨を理解できた親父は得心がいったのか、若干すっきりした顔に変わる。そしてすぐに「アホくさ」とでも言いたげな表情を浮かべた。よく動く表情筋だ。意外にわかりやすい、と思うことが結構ある。

「西田お前……俺がそない小さい男に見えとったんか? アホらし」

 怒りよりは興が削がれたという風体だ。親父に認められていたい自分としては、こういう突き放したような顔が一番心に来る。若干のダメージを負いながら「そういうわけではないんですが……」と絞り出せば、眉間に皺を寄せたまま親父が手元のビールを一口煽った。
「親父にとってはたった一人の兄弟分じゃないですか……何か思うところくらいはあるのかな、と」
 苦しい言い訳のように言葉を繋げると、自分を貶めるような意味の質問でないことを納得したのか、ぎゅっと絞られていた眉間が少し緩んだ。理不尽な行動の多い親父だが、落ち着いて話すときには敏い面がよく表れると思う。
「思うところも何も、アイツ元々そういう奴やで」
 親父は網の端で黒焦げになっていたホルモンを拾って躊躇いなく口に運ぶ。親父に黒焦げを食わせてしまったことを焦る俺と裏腹に、「うま」と小さく声をあげて咀嚼している。
「懐に入れたが最後、何がなんでも面倒見るっちゅー正真正銘のアホやねん。馬鹿正直で絶対曲げへんしな」
 愚痴る口調ではあるものの、遠くを見る目線には慈しむような丸さを含んでいる。おセンチな親父を見ているときにはいつも、なんと声をかけたらいいかわからない。押し黙って烏龍茶を流し込むことで続きを促す。
「兄弟作ることがアイツの幸せなんやったらそれが一番ええ。俺に与えられん幸せを他の兄弟分が持っとるんやったら、そいつと一緒におった方がええねん。俺はアイツに、なーんもできひんかったからな」
 言葉だけ聞けば自嘲気味なのに、目の前の人はいっそ爽やかなほど屈託なく笑みを浮かべて頬杖をつく。自分の予想する感情と実際に受ける印象が乖離してきた。桐生の叔父貴に「読めない」と評される親父は、他の人よりも長めに供をしている自分を以てしても、やはり読めないと思う。
「…………」
「アイツの幸せのためにちいとばかり手助けしたろ思てるけど、俺にできるもんも限られとるしな。アイツはもっと良い思いせなあかんねん」
 「わかるか?」とダメ押ししてきた親父を、どういう顔で迎えればいいかわからない。もちろん返答も見つかっておらず、烏龍茶が減るばかりだ。そんな自分を気にもしていない親父はメニューを開いてデザート欄などを見ている。多分今日の締めはオレンジシャーベットか。
 正直に言うと、親父の言い分には納得がいっていない。親父と冴島の叔父貴の間にあったことは噂程度の情報しか知らないが、冴島の叔父貴にとってのこの人は、もっと大きな存在で、もっと自惚れてもいいほどに、替えのきかない兄弟であるはずだ。叔父貴とは短い付き合いの自分でもそう思うのだ、もっと長くお互いを知っている親父が、そのことを察せないとは思えない。
 子供じみているほどに傍若無人で威風堂々と振る舞う割には、親父にはあまり独占欲のようなものが感じられない。好きなものはとことん追いかけるほど執着するくせに、自分の手から離れることそのものには昏い感情を見せない。潔いと言ってしまえばそれまでだが、読めないちぐはぐさが、側近(と勝手に思っている)としての自分をやきもきさせる。もっと理解できれば、もっと的確にサポートできるだろうに。彼自身も意識していないような、得ることを放棄したような小さな幸福をその手に握らせることもできるかもしれないのに。

「お前、アイツにいらんこと言うなよ」

 いつの間にか正面を向いていた隻眼が、凪いだ水面のごとき怜悧な視線を投げつけてくる。まるでこちらの心情を読んでいるようなタイミングで、虚を突かれた心臓がぎゅっと縮まった。しかし、研ぎ澄まされた無表情がさっと鳴りを潜め、ばつが悪そうな苦笑が顔を覗かせる。

「これ以上大事にされたないねん」

 思わず「はあ」と声が漏れて、それきりこの話題は終わりになった様子だ。親父は二つのメニューの間で指を往復させながらお決まりの歌を口ずさんでいる。
 最後に告げた言葉とその表情の意味は測りかねている。瞳の奥に少しの怯えと後悔が揺らめいていたのも、読めないのに明け透けな態度も。まだまだ補佐として未熟であることを痛感したが、冴島の叔父貴に告げ口して殴られる役割は、やはり自分にしかできないことだろうと思うのだ。そのときに浮かぶ顔によって理解を深めることもまた、自分にとってはきっと必要だ。この人に不要であったとしても。

 最後にメニュー上で止まった指はティラミスを指していた。店員を呼びつけて「宇治金時氷ひとつ頼むわ」と注文する親父を見ながら、やっぱり理解なんてできないかもしれないな……と思った。

SSログ

2017/02/02
【長谷酸(現パロ)】

 自宅で食事をするときはもっぱら自炊だ。よくオッサン臭いのに意外だと言われるが、男一人暮らしにしては生活力がある方だと思う。少なくとも10秒メシ中毒の隣人よりは。
 今日みたいに仕事でどうしても遅くなった日は、コンビニ弁当に頼らざるを得ない日もあるが、それはそれとして、店で買う食事が嫌いというわけではない。
 むしろ買い食いは大好きだ。寄り道ついでにする気楽さも、夜中にふと思い立って出かける特別感も、店に着くまでの何を買おうか考える時間も、日々の些細な幸福を感じられる。

「――京輔か」

 特に、偶然にも意中の相手と鉢合わせた時なんかは。

2017/02/03
【日レバ】

 俺にとって居残りはそんなに珍しいことじゃない。宿題はしっかり終わらせるしテストの点数は悪くないし当番をサボることもないが、女子に当番を押し付けられたり、あるいは今みたいに誰かの仕事や宿題を手伝ったりするためだ。
 本日日曜日はNPスクールが昼から開講となり、夕方には授業を終え、教室も静まり返っている。目に痛いほどの見事な夕焼けが窓から入り込んで、西日をマトモに喰らっている状況だ。正直暑い。しかし任務を放棄することもできず、俺はこうして年上の後輩の面倒を見ている。
 この塾に入学したてで右も左も分からないので宿題を教えてほしいと、いつものへらへらした顔で直談判してきた。なんで俺が、と断ろうとしたら偶然に側を通った教員についでのように任された。嫌いなわけではないが、こいつと居るのは調子が狂う。何を考えてるのかわからないようでいて、何も考えていないような。なんとなく近寄りたくはない。

「――日高先輩?」

 常にへらへらして掴みどころがなくて、腹の底が見えないのも原因だろう。本音らしき顔を見せたことがないように思う。才牙とはまた違った風にクラスからも浮いている。最近入ったばかりだから仕方ないだろうが。

「先輩」

 浮いているといえば、コイツの容姿も現実離れしたところがある。体格も顔もずば抜けて優れているというわけではないんだが、その髪色は目を引くほど明るい。茶髪なんだろうがかなり赤みがかっていて、今日のような夕暮れ時は特に太陽を浴びてきらきらとしている。地毛なのか染めているのかはわからない。痛んでいるようにも見えないから地毛だろうか。

「日高くーん」

 日が傾いて更に真っ赤で、小さい頃に見つけたヘビイチゴのような色をしていた。そういえば以前にもこうしてきらきらするこいつの髪に目を奪われたことがある気がする。確かあれは、夜中に行ったアンプラグド狩りの、ネオンの下にいて――

「迅八郎さん!」

 こんな風に、俺の意識を奪っていたときのことだった。

2017/02/04
【長谷酸(現パロ)】

「なんだこれ」

 目の前のマグカップには、淡い色合いの液体が注がれていた。丁度ミルクティーのような色をしているが、それにしてはわずかに濁っていて、液体のフチには油分のようなものも見て取れる。なんらかのスープのように思ったが、それにしては匂いが少し甘い。

「……ホワイトチョコレートの紅茶だ」

 キャンパスに向き合って手を動かし続ける家主からそう告げられて、少し驚いた。突拍子もないことをする奴とはいえ、今までにないタイプの奇行だ。自分で飲む分だから好きにすれば良いとは思うが。

「なんで」
「意味はない……そこにあったから入れた」

 まあ確かにチョコレート入りの紅茶は美味しそうではあるが、あまり口を付けられないまま冷え切っている様子からして、思ったような味にはならなかったんだろう。なんとも哀れな紅茶だ。哀れみついでに一口飲んでみると、匂いは甘いものの味はそうでもなく、なんとなく混乱するような仕上がりだった。確かにあまり美味しくはないな。

「それにしても、お前はあんまり食べ物で遊ぶタイプじゃないだろ」
「……実験だ」
「実験?」

 視線だけをこちらに向けて、ほんの少し口角を上げるのがわかった。この男の薄い表情の中で、俺のお気に入りの一つだ。この表情の後にはいつも、

「――10日後のための、な」

――やられた。

いつも心を掴んで離さない。

【末真+藤花(+朝子)】

 規則的な美しい罫線が並んだノートの上には、文字とも記号ともつかない意味不明な線がのたうち回っていて、ページの隅にはやる気のない小さな落書きが鎮座している。机の上に開かれた本が単語帳などと一緒に散乱していて、そんな有様にした本人はというと、

「飽きた……」

飽きていた。
 すでに上半身の力は抜けて机に突っ伏しているし、シャープペンシルを持っているはずの手は投げ出されている。見えているわけじゃないがなんとなく魂すら抜けている気がする。私は持っていた本を閉じて、すっかりだらけた親友に体を向けた。

「起きて藤花、手を止めてからもう1時間経ってるわよ」

 私たちは今日、1週間後に迫る期末テストに向けて勉強をするべく、この図書館に来ている。初めはやる気を出して必死に問題集と向き合っていた藤花も、今やすっかりこの通りだ。私は一通り復習を終えたので、一休みとして適当に取った本をぱらぱら捲っている最中だった。

「だってえ……末真だって本読んでるじゃない」
「藤花は一問解いては休んで、一問解いては休んでの繰り返しでしょ。まだ5問しか解けてないし」
「うううう……」

私に痛いところを突かれたのか、親友は泣きそうな顔をしてこちらを見上げてくる。ここで甘やかしてはいけないとわかっているので、わざとじっとりした目で視線を返してあげた。通用しないとわかるとバツが悪くなったように、藤花は視線を逸らして、私がさっきまで読んでいた本に手を伸ばした。

「何読んでるの」

そう言って表紙を見た彼女は、うげ、とでも言いたげに顔を歪める。『すぐわかる高校数学』のタイトルは、今の彼女にとって最も見たくない文字だろう。

「なんでこんなの読んでるのよ~」
「適当に取ったらこれだったのよ」

だからって……とブツクサ呟きながら藤花が表紙をめくると、本の中からはらりと一枚の紙が落ちてきた。

「あら、気付かなかったわ」

どうやらそれは貸出記録のレシートのようだった。この図書館では、貸出のときに登録者カードのバーコードを読み取って、返却日等の書かれたレシートを発行する。なくさないように本に挟んだまま返してしまう人が結構いるので、こういうことはあまり珍しくはない。

「浅倉……朝子?うちの学校にいたかしら」

藤花はレシートを拾ってまじまじと見つめている。口に出された名前にはまったく聞き覚えがなかったので、おそらく同じ学校ではないと思うのだが――

「きっと別の学校の子よね。この近くにもまあまあ高校はあるし」
「そうだと思うけど、趣味が悪いわよ。あんまり人のレシート見るのは……」

藤花の手からレシートを奪ってくしゃくしゃと丸めた。彼女からはあー、と少しだけ不服そうな声が漏れていたが、さほど興味はなかったのか渋々とノートに向き直っていた。
 私は満足そうに少し笑って、また改めて本を開く。と、そこには同じようなレシートが挟まっていた。貸出者名は『浅倉朝子』。奥付と裏表紙の間にもレシートが。貸出者名『浅倉朝子』。

「……」

背表紙を摘むようにして上下に振ると、ぱらぱらと4,5枚のレシートが落ちてくる。貸出者名は全て同じで、貸出日はちょうど貸出上限期間の2週間ごと。

「ぷっ……ふふ」
「何笑ってんのよ末真」

見たことも会ったこともないけれど、ちょっと間の抜けた頑張り屋さんがどうにも愉快に思えてしまって。

2017/02/07
【伊佐+千条(+正綺)】

ごうん、ごうん、ごうん……。

 小ぢんまりとした静かな建物の中には、乾燥機の回る規則的な音だけが響いている。時刻は午前2時。当然、俺たち以外に人気はないし、建物の周辺も閑散としていた。

「伊佐、テレビは点けないのかい」

俺の隣に腰掛けているひょろっと背の高い、ぼんやりとした顔つきの男が、これまた抑揚の感じられない声で問いかけてきた。

「この時間帯じゃあ、目ぼしい番組も無いからな」

それに警察の独身寮時代から、コインランドリーの待ち時間は何もしない習慣になっている。こだわりという程ではないんだが、何もせずぼーっと座っている時間がなんとなく落ち着く。

「そうかい。……じゃあ僕が話し相手になろうか」
「そのために着いてきたんじゃないだろう。別に退屈してるわけでもないから気にするな」

なんやかんやとお節介を焼いてくるこの男――千条が、いつもランドリーに着いてきているわけではない。最近はペイパーカットの事件に付きっきりだったせいで洗濯物が溜まりに溜まり、大量の衣類を運ぶために二人で来ている。千条は自分だけで行くよと言うのだが、同居人を家政婦のように扱うのは気が引けた。

ごうん、ごうん……。
乾燥機の残り時間はあと12分。

からり。

 ランドリーの少し古びた入口の戸が開く音だ。俺たち以外の客人が来るのはおかしいことじゃないが、僅かに目を見開いてしまった。訪れた人物に見覚えがあったためだ。

(あの娘は――)

 警察の独身寮時代にも、近くのランドリーに通うことはあった。そのランドリーにも来ていたのだ。彼女も俺と同じく人気のない時間帯に訪れ、やはり俺と同じく何もせずぼーっとしていた。ただ彼女の場合は、じっとしている方が落ち着くというよりも、暇つぶしをすることに興味がないといった風情だった。大体いつも生気の無い顔をしていて、特に趣味もないんだろうなどと失礼なことを考えていた。俺が言えたことではないが。
 まさか独身寮から引っ越した先のランドリーでも会えるとは思っておらず、とんだ偶然に唖然としてしまっている。と、彼女と目が合った。彼女もこちらを覚えていたようで、同じように僅かに驚いたような顔をした後、

ぺこり。

小さな会釈をして通り過ぎた。条件反射的に会釈は返せたが、正直更に驚いていた。以前の彼女は、暇つぶしにも、人付き合いにも極端に興味がないようで、いつもやや下を向きながら歩いていたためだ。

「――綺!」

間を置かずに、今度は彼女と同じ年頃の少年が、小走り気味に入ってきた。少年は彼女の隣に立って話しかけていて、予想通り彼女の連れらしい。

私だけで良かったのに。でも深夜だから心配だったんだ。平気よ。そんなことない。乾かすのも靴だけだし。いいから。云々――

(なるほど――)

 彼女に対する違和感がすべて解消された。要するに、人を好きになったんだ。恋人ができて、彼氏は社交的そうだから人脈も広がって、友達ができて、彼氏のために趣味にあたるようなことも始めてみて、とかそんな具合だろう。なるほど、恋は人を変えるということだ。悟った気分で小さく頷く。千条が不思議そうに見つめてくる。

「知り合いかい?」
「いや――」

知り合いではない。知り合いではないが、なんとなくお互い同じ境遇に居て、今も同じような変化に己を変えられつつある。相方ができて、一人でいるよりも二人でいる方がしっくりくるようになった。

ごうん、ごうん……。

乾燥機の待ち時間も、隣に温度を感じられる。

「伊佐?」
「まだ乾きそうにないかと思ってな」

もう少し待っていたいから、百円入れて九分追加だ。

2017/02/10
【詩歌(+そら)】

 私には、美しいお友達がいた。

 お名前はそらさん。彼女の美しく透き通った瞳にぴったりの名前だと思った。
 彼女は私と同じ年頃の少女であっても、いつも冷静で、大人びていて、どこか遠くを見ている人だった。ごくたまにハッとするほど冷たい顔をしているけれど、私に向ける声は優しく、限りなく透明だった。例えるなら真冬の夜のような、シンとした音を感じる声だった。
 彼女と冬を共に過ごした。一緒に下校するだけだったけれど。浅く積もった雪に注意深く歩く私と対照的に、彼女はずっと空を見上げていた。真冬の日は短く、すでに辺りは薄暗くなっていたので、夜空の観察には最適だった。彼女につられて空を見れば、星明かりが夜闇に小さく穴を開けていて、思わず口元が綻んだ。そして夢中になって、足元が疎かになったところで体は傾いて、支えようとしてくれた彼女を巻き込んで一緒に転んだ。慌てて謝る私に、雪を頭から被った彼女はくすくすと笑った。
――雪のような笑顔だと思った。濁りを混ぜて尚、真っ白に輝いて、少しずつ降り積もっては、私たちも同じように覆ってくれる。

 雪のような彼女は私を包んで、何も無かったように溶けていなくなる。

(どうして、行ってしまったのかしら)

 彼女はどこかへ行ってしまった。おそらく私たちの及びも付かない場所に。彼女とのお別れの前に、私は彼女を見た。彼女も私を見ていた。それだけで何も遺してはくれない。突き放すような元通りは、穴を開けられた夜空に光が射し込まないような理不尽さだった。一方的に、終わってしまったのよ、なんて言われる気分だ。

(雪のような声も、髪も、忘れてしまうんだわ)

 雪が溶けて、春も去ってしまっては、何を詩えばいいのかわからない。

2017/03/04
【クズっち+舞惟】

 女子高生にとって、口紅は化粧入門というかなんというか、とにかく初めて買うコスメティックに向いている。と思う。

 ママはまだ早いと言いつつ、目立つ場所では軽く化粧をして行きなさいと言ったり今イチ定まらないので、あまり自主的にしようとは思わない。化粧道具もママが買ってきた最低限のものしか持っていないし。
 しかし今の私はといえば、少し畏まって背伸びをするようなデパート地下の化粧品売場にいる。正直に言って女子高生のお小遣いには渋い買い物になることは分かり切っているのに、果敢にも制服で挑んでいるわけだ。先程から薄く汗をかいているが気付かないふりをしている。

「ねえ紅葉、聞いてる?」
「は、はいっ?」

 こちらを覗き込んでくる親友と目が合ったことで、明後日を見ていた私の意識は引き戻された。親友――舞惟は、両手に口紅を一本ずつ持って、怪訝そうな顔をしている。私をデパ地下の緊張エリアに連れてきた張本人だ。私が正直に「き、聞いてませんでした」と答えると、呆れたような溜息を小さく吐かれた。だって緊張するんだもの、しょうがないじゃない。

「こっちとこっちの色、どっちが好きかって聞いたの」

 そういって眼前に差し出してきたのは、どちらもピンクを基調とした控えめな色味だ。向かって右の方が少し鮮やかで、粒の小さなラメも入っているようだった。
 正直、舞惟の印象とは違うので意外だった。舞惟はいつも凛とした表情で、性格もそれに負けず劣らず。小柄なのに堂々としているから、むしろ大人びて見えるくらいだ。だからきっと、鮮やかな赤色なんて似合うだろうと思っていたのに、手に持っているのは可愛らしいピンク。しかし、中学生にも見える童顔の持ち主でもあるので、甘い色味もとてもよく似合うと思う。

「うーん……こっち、かな?」

 差し出されていた2本のうち、より鮮やかな方を指差した。舞惟の華やかな顔立ちを引き立てるのにぴったりだと思ったからだ。舞惟は満足そうに頷いて、私が選んだ方をいそいそとレジへと持っていった。
 そんなに口紅が欲しかったのかな、私も買えば良かったかしら、などと考えながら、レジから少し離れた場所で待っている。たしか他にお客さんはいなかったはずなのに、舞惟の会計はやけに遅い。何かあったのか、と心配し始めたちょうどその頃、ようやく舞惟が紙袋を持って小走りに帰ってきた。紙袋は特別可愛く、リボンなんか掛けられていて、まるでプレゼントの包みのようだった。さすが高いお店は違うんだなあ、と吞気に考えて、「おまたせ」と言った舞惟に「全然」と返す。

「はい」

 舞惟が綺麗な包みを私へ差し出してきた。反射的に手を出して受け取ったが、これはどういうアレだろう。荷物持ちかな?でも舞惟はあんまりそういうことをしないはずだけど。きょとんとしながら首をかしげて、舞惟に目で訴えてみる。

「プレゼントよ」

 なるほど合点がいった。これは高い店だから包みが可愛らしいのでなく、ギフト用だから綺麗なんだ。なるほどーなるほどなるほど納得。

「……って、え?なんで!?」

 突然の出来事に面食らって、少し大きな声を出してしまったので、はっと口を押さえて辺りを見回す。大して目立ってはいなかったようだ。

「なんでと言われても……なんとなく?」

 そして大きな声を出させた犯人はというと、やはり怪訝な顔をして小首を傾げている。ああもう、そんなに可愛い顔をされてもどうすれば。
 ここはデパ地下で、緊張エリアで、口紅1本だとしても、高校生が友達になんとなくで買えるものじゃないでしょ。どういうことなのよ。

「紅葉の髪の色に合わせてみたからきっと似合うと思うわ。そうだ、そこの化粧室で付けてみてよ」
 
 私の困惑を知ってか知らずか、舞惟は若干はしゃいだような様子で笑顔を向けてくる。なんでよ。これ4千円でしょ。誕生日でもないのにこんなプレゼント貰えないわよ。なんなの。第一、そもそも、大体……

「ずるいわよ!私も舞惟の口紅選びたい!」

 今度はそこら一帯に響いたため、私は真っ赤な顔で舞惟に似合う口紅を探す羽目になった。

ツイッターSS(都合によりすべて長谷酸(現パロ含))

『長谷酸さんに与えられたお題は 「金」「奴隷市」「ヤンデレ」 です。頑張って混ぜてください。 #3つのお題で創作 https://shindanmaker.com/716352』
市場に並んでいた彼は一際目立たない存在だったが、一目で惚れた故もう何ヶ月も通いつめている。金はないので俺は買えない。彼も売れない。いい加減に彼を人目に触れさせるのが嫌になって、金貨の代わりにナイフを握ってきた。彼の赤い瞳は俺を見て嬉しそうに細まったので、多分これで正解なんだろう。

『【長谷酸】 「ああっもう!花束でも用意すればよかった!」 #この台詞から妄想するなら https://shindanmaker.com/681121』
急な誘いでもアイツは嫌な顔ひとつせず、かと言って嬉しそうな素振りも見せず、読めない表情に平らな声音を乗せて同意する。 ――はずだった。 『――楽しみにしている』 電話越しの予想外は俺の頭を容易に乱し、この嬉しさをどう発散したものやら。 「ああもう!花束でも買ってくりゃよかった!」

『貴方は長谷酸で『どんな言葉よりも』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/375517』
元々会話が多いというわけでもないが、いよいよ一言も喋らなくなった。というのも、相方の死期が近く、声帯がダメになってしまったためである。本人は特に動じることはなく、俺もすんなり受け入れたが、声が聞けないのはちと寂しい。しかしまあ、こちらを見透かすあの視線は、ああ、どんな言葉よりも、

『【長谷酸】 「今まで、俺のなにを見てきたんだ?」 #この台詞から妄想するなら2 https://shindanmaker.com/705660』
いよいよ絶望的だ。僕の手元には一切合切何も残らず、今までの行動がすべて無駄という結果をもたらした。運命は途切れ、希望は困難の彼方。だと言うのに、この男はいつまでも隣に立っている。何故と問えば、男は呆れたように笑った。 「今まで、俺のなにを見てきたんだ?」 俺はずっと見てきたのに。

『長谷酸へのお題は『届くことのないメール』です。 https://shindanmaker.com/392860』
今時珍しくなってきた折りたたみ携帯の液晶では、普段の俺を想像すると背筋が寒くなるような誘い文句が切々と綴られては、全文消去が繰り返されている。やっと”らしい”形に収まって来たかと思えば、今度は送信する勇気がない。畜生。ヘタレ。洒落臭いから今から訪ねて直接言ってしまおう。

『長谷酸の切ないシチュエーション 『今にも泣き出しそうに 君は 「もう諦めたんだ」 と言いました。』  https://shindanmaker.com/123977』
壊れかけの身体を引きずってまで希望を探す姿は美しかった。時に泥のように淀みながらも爛々と光る赤い目を抱きながら消えたいと思った。
今にも泣き出しそうに君は「もう諦めたんだ」と言った。
美しさは変容して、瞳は滲んでしまっているが、君は変わらず愛しかった。寂しさだけが初めてだった。

『長谷部が恋だと気付いたのは溢れた思いが言葉にならなかったとき です。 https://shindanmaker.com/558753』
僕との会話中に突然妙な表情をしたかと思えば、しきりに腕を上下させて威嚇のような真似をし、更には鯉のように口を開閉させている。全て無言で、意味がわからない、どうしてとでも言いたげな表情を浮かべながら。やがてスッと真顔になると、「なるほど」と腑に落ちた様子で立ち去った。なんだあれは。

『貴方は長谷酸で『目を奪われる』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/587150』
特別な能力が無くたって、人はそれぞれ見える世界が違うのではないか。己の世界の鮮烈な何かに目を奪われてしまうのは仕方がないことだ。 お前の目を奪ってしまえればと思うが、きっとあの赤色はお前のほとんどを奪ってしまっているだろうから、ならばせめて目だけでも、俺の傍に遺してはくれないか。

『長谷酸さんは『「ごめんなさい」』をお題に、140字でSSを書いてください。 https://shindanmaker.com/320966』
成人男性となった今、「ごめんなさい」と謝罪する機会はほぼゼロだ。大体はすまない、申し訳ないに言葉が置き換わる。咄嗟にでも出てくる文言ではないだろうと思っていたが…… 先程成り行きでハリウッドを叱る形になり、つい「ごめんなさいは?」と言ってしまった。マジか。「ごめんなさい」素直か。

『長谷酸にとって「手をつなぐ」ことは『好きだと気付いてくれないか』という意味です。 https://shindanmaker.com/490429』
つい。魔が差して。思いがけず。としか形容できないほど、突然にその手を握り締めてしまった。美しく細やかに動く手を、文字通り手中に収めてしまった。相手は少し驚いたものの、何も言わずされるがままだ。黙ったまま離すにも離せない、離し難い。ああいっそ、俺の気持ちに気づいてくれたらいいのに。

『長谷酸のタイトルは『君を探して』 煽り文は『俺だけを愛してはくれなかったな』です #CP本タイトルと煽り https://shindanmaker.com/717995』
嘗て神と成ったお前に、もう一度会いたかった。長い長い果てしない一生を賭けてでも、もう一度、”酸素”などではないお前を探してみせると決意した。そうすればもしかしたら、なんて幻想だけで歩いていられた。夢中だった。ただただ世界から取り返そうと。 「結局、俺だけを愛してはくれなかったな」

『貴方は長谷酸で『優先順位』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/375517』
アレは世界のものだ。運命から弾かれた俺は、何物よりも優先されるべきではない。俺の最優先はいつもあいつだというのに、最後の最期まで一方通行の片思いだ。 それでいい。そんな関係が心地良い。すべて俺が選択した。だから、 頼むから、自分よりは優先するなんて馬鹿なことしないでくれよ。

『【長谷酸】 「何者なんだ・・・?」 #この台詞から妄想するなら https://shindanmaker.com/681121』
無表情で素っ気なくて、陰気で影が薄くて空気みたいな上に何考えてるかわからない。と思ったらよくよく見れば普通に感情は表に出すし、猫が好きだし、茶目っ気があるし意外にお節介というかなんというか。見ていて飽きないなと思うんだ。 「一体何者なんだ……?」 ここまで俺を惚れさせる男は。

『貴方は長谷酸で『逃がさないでね、僕のこと』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/587150』
それは重いだろうと言った。背負いきれるかわからないと言った。すぐにでも走ってどこかへ行ってしまいたくなるだろう、と思った。だから俺を選んだんだと、言われた。覚悟の乗った声色だ。 「……逃がすなよ、僕のことを」 俺を誰だと思っているんだ。地獄の底までだって追いかけてやる。

『長谷酸の愛の言葉:雨が止んだ花冷えの夜、静かに寄り添って「たぶん、君が思っているよりずっと好きだ」 https://shindanmaker.com/435977』
若草から雫がぽとりと落ちる音がして、反射的に寒い、と思った。現実に立ち返った明日の自分は、馬鹿馬鹿しいなんて嘲笑うだろうが、今宵は浸っていたい気分だ。何せ隣の君とこうして、体温を分け合う真似事なんてしてるんだから。 「……多分、お前が思っているよりずっと好きだ」

『長谷酸が恋だと気付いたのは溢れた思いが言葉にならなかったとき です。 https://shindanmaker.com/558753』
くるしい。喉が詰まってくるしい。肺が引き絞られるようにくるしい。無いはずの器官すべてがはちきれそうなほど、くるしい。叫んでしまえばいいのに、大切な欠片が壊れてしまいそうで。くるしい。 「……泣きたいのか?」 そうなんだ。それなのに。涙代わりの言葉も出てきてくれないんだ。

『酸素は長谷部に苦しげに笑って言いました。 『君のおかげでここまで生きれた。ありがとう』 #きみとお別れったー https://shindanmaker.com/459976』
最期だろうとなんだろうと、俺たちの間はどうしたって変わらないさ。隣にいるのが当然で、空気みたいに混ざり合って、木漏れ日のような緩やかさで、これからだって想っていける。 「お前のおかげでここまで生きられた。……ありがとう」 そんな顔で、そんな言葉で、そんな思い聞きたくなかった。

『酸素は死ぬ前に言った。「春はまだか」 酸素の表情は、晴れやかだった。 #死ぬ前に言う言葉と表情 https://shindanmaker.com/522035』
久々の再開は寂しげな桜の木の下だった。以前よりよっぽど薄まった影はいよいよ陽射しに溶けてしまいそうで、潮時なんだな、とぼんやり思った。 「春はまだか」 「お前がいなくなってからな」 晴れやかに笑って、いつの間にか消えていた。眼前の大樹にはせっかちな蕾が一輪開きかけている。

『私は4favされたら、長谷酸の「俺を信じてよ」で始まる小説を書きます(o・ω・o) https://shindanmaker.com/321047』
「俺を信じてくれ」 必死に僕へ語りかける眼差しに偽りはないのだろう。類を見ないほど真剣な声色、僕の手を固く握る掌には迷いがない。嘘をつくのは得意な男だが、こうして誠意を伝えることもまた、得手ではある。しかし、 「信じているが……断る」 メイド服を握りしめて崩れ落ちる様はどうにも。

『長谷酸の今日のパラレルは 神主×大学生 なんてどうでしょうか https://shindanmaker.com/563925』
じっと窺い見る。寂れた神社に訪れる割には、お参りもせず、休憩所のように居座るでもなく、壁に少しだけ凭れてただ虚空を眺めているのだ。待ってるようでもあって、それが一体なんなのか気になってしまう。観察したらいつも通り声をかける。 「よう青年、また来たか」 明日も来るという確信でもって。

『長谷酸さんは『膝枕』をお題に、140字でSSを書いてください。 https://shindanmaker.com/320966』
「薄い……」 あと硬い。 「文句を言うな」 若干棘のある声色が珍しくて、枕の持ち主を仰ぎ見る。呆れているようだった。俺が言い出したんだもんな、そりゃそうだ。 「ん」 おもむろに唇が降ってくる。宥めるように優しくて、多分あやされているんだと思う。 良いサービスだな。星5つ。

【万騎くん】

 矢嶋万騎――またの名をホーニー・トードは、統和機構のエース級戦闘用合成人間である。

 そしてただの高校生でもある。現在は学校をズル休み中である。

 いや、ズル休みというのも正確ではないだろう。彼はベテランの戦士、情け容赦なく敵を殺せる非情さを持ち合わせているとは言っても、立て続けにしんどい任務が重なれば心身ともにしんどくなる。道徳や価値観は幼少期からごく普通の家庭で形成されてきたために、そういうこともあるのだ。要するにメンタルが弱ってしまっているので、こうして学校にも行かずベッドの上で丸くなっている。両親もたまにこういうことがあるのはわかっているので、風邪ということにして学校に連絡を入れてくれた。理解があるのはありがたいことだ。
 3日前の任務対象は年端もいかない子供だった。まだ足し算ができるかできないかくらいだったろうか。1週間前は自分と同じくらいの歳の少年だった。親友と思しき少年が庇いに来たが、任務を優先した。1ヵ月前は壮年の女性だった。最後に息子に合わせてほしいと言われた。2ヶ月前は……。
 考えるのはやめようと頭を振って、反対方向に寝返りを打った。鬱々としたことを考えてもしょうがない。回復しなければ仮病を使ってまで休んだ意味がないとわかっていても、そもそも昼まで寝ていたので、日が傾いてきた今頃に寝られるはずもない。
 ずっと布団にくるまっているだけの状況も飽きてきたので、チカチカとランプの点灯する携帯を開いた。ランプはメール着信の合図だったようで、送信元は親友の二人だ。思わず顔をほころばせて一通ずつ開けば、仮病じゃねーのかとか、学校でこんな馬鹿やってたとか、お前がいないと寂しい(馬鹿にしている)とか、くだらないお見舞いメールだった。読んでいるとさっきまで何を考えていたのか忘れてしまって、けどメールの返信をする気も起きないまま、携帯を閉じてまた寝入ろうとした――途端に、けたたましい着信音が薄暗い部屋に響いた。慌ててディスプレイを確認すれば、親友のうちの一人から。そういえば丁度学校が終わる頃合だろうか。風邪の振りをしようかしまいか……と考えながら通話を受ける。

「おー、どうしたんだよ。……いや仮病じゃないって。ほんとに風邪…………え、カラオケ?百太の奢り……全然行ける。今治ったから。……だから全然仮病じゃないって。すぐ行くから駅前集合で。…………母さん!遊びに行ってくる!」

【長谷酸】

 冬が嫌いだ。

 正確に言えば雪だろうか。まだ怪我をすれば血が流れていた頃なんかは、よく寒い寒いとのたまっていて、てっきり寒いのが嫌いなんだと思っていたが、こうして奇妙な肉体になってからようやくそうではないとわかった。自分の気持ちの出処なんて意外に知らないということも。
 雪だるまを作った経験くらいは誰にだってあるだろう。本腰を入れて作られたデカい雪だるまも、歩きながら適当に作られた雪だるまも、見知らぬ他人が作って放置した野良雪だるまも、見かけてしまえばなんとなく愛着が沸いてしまう。二つ並んだ小さな雪だるまの兄弟に思わず笑みをこぼしたことや、不器用に丸められた完成度の低い雪うさぎにも物語がある。
 そして当然ながら、愛しかった雪細工は大抵数日経てば溶けてなくなってしまう。誰かが作った小さな兄弟は、その場に目玉だけを残して綺麗に姿を消してしまった。いっそなんの痕跡も残してくれなければ、気のせいだったと思うこともできただろうに。
 雪は嫌いだ。寂しくなるから。

 563回目の春が来た。雪は溶け、虫たちは眠りから覚め、新しい芽吹きが始まっている。今年の春に、冬の名を持つ男はいない。春になったからいなくなってしまったんだろうなあ、と残された奴の飼い猫を撫でながら思ったりした。

(春なんてこなければよかったのに)

 まったく人の気持ちは摩訶不思議で難しい。結局俺は、冬じゃなくて雪でもなくて、春が嫌いだったんだ。

【才牙きょうだい】

「ふたつあるアイスってちょっと不親切だと思わないかい?」
 僕の脈絡のない会話に(いつものことだしそろそろ慣れてほしいけど)、それはそれは鬱陶しそうな目をする妹。自分よりもよっぽど低い位置からじろりと睨めつけられているのに、不思議と圧がすごいなと思う。
「だって屋外で食べるときなんかは、二人いること前提だ。味が好きだから買ってる人も多いだろうに、そんな妙な制約を負わされてたまったもんじゃないよね」
「くどい。二つ食べればいいでしょう」
「しかし、僕は今そらと二人でいるわけだからさ。いいんじゃないかな、一つずつで」
 不機嫌な顔がますます恐ろしげな形相になるけど、顔の怖さに反比例してとげとげした空気がぽろぽろ剥がれている気がする。今日は機嫌がいい方なのかもしれない。
 僕の手からアイスの片割れを奪うと、ふすん、とため息をつきながら口に含んだ。内側から押し出された頬がもちもちしている。
「やっぱり僕の方が兄だよね」
「黙れ」

ガラクタとからす

俺は、探している。

どうしようもない空虚を、退屈を、すべて忘れさせてくれるような相手を。
この最強と互角に戦える強さを。

――あるいは、それ以上を。

あと今はカラスも探している。

 事の発端は今日の正午。人気のない廃ビルでどうでもいい任務をこなした後、いつものように通信端末を使って報告した。そして更にいつもの如くなんやかんやとイラついて通信を切り、憤りもそのままに端末を窓辺に叩きつけるように投げ置いた。腹の虫が収まらないからビルの屋上で街を見下ろしていたときに、一羽のカラスが飛び立っていった。俺の端末をくわえて。窓は開いていたから、光り物を見つけて持っていったというところだろう。端末が持って行かれたと気づいた時には、奴はもう攻撃射程範囲の外に出ていた。この俺としたことが。
 端末などに大して執着はない。任務中に壊して新しいのを支給されることもあるし、失くしたから新しいものを寄越せと言えば直ちに届くだろう。機構の上に声を届けるために別の構成員を捕まえるまでは不便するというだけで。どうせまたオキシジェン辺りがどうでもいい任務を持ってくるから、その時にでも言えばいい。わざわざ探す理由はない。

――が。

「売られた喧嘩は、買わねばなるまい」

相手が鳥類だろうと人類だろうと、大した違いはない。

 能力で高い場所をあちこち移動しながら、目標を探す。かなりの高度を、目に止まりにくい速さで移動しているため、地上を歩く通行人には気づかれないだろう。まあ気づかれたとしてもどうだっていい。
 件のカラスは、体の大きさ、顔の特徴、鳴き声、都心部に生息していることを踏まえると、まず間違いなくハシブトガラスだ。今は5月の中旬。カラスはちょうど孵化した雛を巣で育てている頃合だろう。巣を作る場所は、都心部だと主に街路樹、電柱、高架水槽などの高い場所になるが、この近くに高架水槽はない。移動しながら観察している限りでは、この辺りの電柱にも巣はできていなかった。残るは街路樹のみになるが、最近の街路樹はカラスの営巣対策として、枝がかなりすっきりと剪定されており、見通しがよくなっている。あんな隠れようがない場所に巣を作ることはない。

(ということは――)

 消去法で最後に残った選択肢として、この寂れた神社に来た。都心に近い割には人が訪れることは少ないらしく、休日にも鬱蒼と静まり返っている。土地だけは広いおかげで木々はそのまま巨大に成長していき、外から見ると局地的な森のようになっていた。つまり、カラスが巣を作るには絶好のポイントになる。
 木から木へと移りながら見回すと、程なくして目的の巣を発見した。陽光を反射してキラリと光る細長い端末が、巣の中に無造作に置かれている。そして案の定、件のカラスとその雛も。

「おい貴様」

ご丁寧に犯人(犯鳥?)へ声をかけると、俺の存在に気づいた親カラスはカァ、カァと喚いてきた。構わず近寄ると、今度はバサバサと羽を大きく広げている。威嚇しているのだ。この俺を相手に。

「ほう、この俺に楯突くか」

俺の笑みの意味がわかってるんだかわかってないんだか、カラスは更に激しく羽を振り回している。己よりも遥かに大きく、優秀な生物を相手に威嚇している。動物であろうと殺気も伝わっているだろう。しかしコイツは威嚇をやめない。自分の背後で鳴く雛を守るために。

(守る、か――)

目的のない力は強さではないと聞いた気がする。ならば目的さえあれば強いのか。目的とはなんだ。俺にはないが、コイツにはあるものだ。守る対象。馬鹿馬鹿しい。

「くだらん……だが、」

俺の殺気が引っ込んだのを察したのか、カラスは威嚇をやめて大人しくなる。首をかしげているのは、果たして人間と同じ意味なのか。

「その意気や良し。そのガラクタはいらん、取っておけ」

木から降りる俺の背中に、雛鳥のピィと一際甲高い声が投げられた。

 後日、クレープ片手に街を歩く俺の頭上に、小さな物体が飛来してきた。難なく受け止めると、掌には例の通信端末が収まっている。
 街路樹の枝にはカラス。俺がよう、と言うと、カラスはカァ、と鳴いた。頭の良いことだ。

拝啓 橙色の底から

 繰り返される規則的な揺れで目が覚めた。薄ぼんやりともやのかかった視界は黄色いような赤いような、奇妙な箱のように見えるので、夜が近いのだなと、覚醒しきってない頭で考えた。何度か瞬きをすれば向かいの座席と、つり革と、興味のない広告がはっきりと見えて、ここが電車の中であることがわかる。自分たちの貸切電車のようで、他に乗客は見当たらない。肩にかかる心地よい重みは不安定だ。まだ眠っている親友が快適にまどろんでいられるよう、ゆっくりと体勢を整える。整えて、すぐ近くにある顔を覗き込んだ。いつもくるくると目まぐるしい表情は鳴りを潜めて、今はただただ静かに目を閉じている。嬉しいとか、苦しいとかそういう感情もなくて、穏やかに眠っている顔に安堵した。窓から差し込む光を受けた髪は、人工的に色を抜かれていて、少々不自然な輝きを放っていたが、それも彼女らしいもので、好ましいとすら思っている。
 光の元を辿るように首を反対側へと向ければ、太陽が水平線に溶けかかっていた。窓を開けていないのでわからないが、外は潮の匂いでいっぱいだろう。窓からは何かの木の葉と、砂浜と、切り立った崖と、一面の海しか見えない。それからふと、どうしてこんなところにいるのか思い出そうとした。そもそもどこから来たんだっけ。ずっと長い間電車に乗っていた気がする。朝からずっと、乗り慣れない電車に乗って、乗り継いで、人が減っていくのを眺めながら、誰もいないような路線を終点まで。いくら記憶を掘り返しても理由がわからないので、自分の肩で健やかに眠る親友の頼みだろうと結論づけた。いつもそうだった。彼女は突拍子もないようなことを言うが、それに意味がなかったことなんてなくて、真っ直ぐに彼女を信じることができた。彼女の願いならばなんでも聞いてやるつもりだった。大切な優しい親友の願いだから。
 何も思い出せないまま少しの時が過ぎて、電車の中に終点を知らせる声が響いた。オレが未だ眠り続ける親友に短く声をかけると、彼女は開ききらない目をこすりながら、小さくあくびを零した。まだ少し足元の覚束無い彼女を気遣いながら電車を降りると、そこは小さい無人駅で、当然のように自分たち以外は誰もいない。改札にしてはお粗末な出口からは一面の海と砂浜が見て取れて、ぼんやりと覚醒しきらない親友も少しずつ気分を上げていった。どうやらここは彼女の望んだ場所で間違いないようだ。
 車がまったく通らない割に広く舗装されている道路を我が物顔で横断して、簡単に作りつけられた階段を降りる。設備や砂浜は汚れてこそいないが、手入れはなんだか中途半端で、そこかしこに雑草や少しのゴミや、流されてきた壊れた傘なんかも落ちている。今は時期じゃないから後回しにされているんだろう。
 親友は完全にいつもの明るさを取り戻して、もたつきながら靴を放り出すと、波と戯れながらはしゃいでいた。ひらひらと広がるスカートを履いているので、時折裾なんかを気にしながら、存分に水の冷たさを堪能している。砂浜でその様子を眺めているオレに手を振って、それから、少し深いところへ歩みだした。スカートの裾がつくギリギリまでの深さで、もう一度彼女はこちらを振り返った。

「凪!」

いつも通りの太陽と同じ色の声で名前を呼ばれて、自然とそちらへ足を踏み出すと、彼女は大きくかぶりを振った。不自然に輝く薄い色の髪がぱさぱさと舞っていたので、仕草の意味はどうでもよくなった。一歩を踏み出した姿勢のまま、動けない。
 立ち止まるオレを満足そうに眺めて、彼女はまた一段階深いところへ遠ざかる。スカートの裾は水面で広がってしまって、お気に入りだと言っていたのに勿体無いな、と思った。彼女が後ろを向いたので、オレはまた歩みをはじめる。今度はこちらを振り返らない。靴も脱がないまま波打ち際へたどり着く。波はすぐにオレの足をさらって、まとわりついて、重くした。更に歩を進めようとしたが、うまく歩けない。波は粘ついたように重かった。無理やり踏み出せば着地点の定まらない足はあっという間にバランスを崩して、その場に片膝をついてしまう。立ち上がりかけた姿勢で彼女を見やれば、ますます遠くへと離れてしまっていた。とっくに沖の方にいるはずなのに、沈んでいる様子はなく、オレのように足を取られた様子もない。ただひたすらに水平線へと歩いている。もう少ししたら、あの太陽と一緒に溶けるのだろうか。
 重く粘つく波は歩を進めるごとに密度を増しているように感じられるが、それを不自然には思わなかった。足を取られて転ぶことを無様だとも思わなかった。彼女の元へ行くのに邪魔だな、とだけ思った。彼女との距離は離れていくばかりなのに、オレは名前を呼ばなかった。呼んでもどうしようもないことを知っていた。
 一歩進んで、ガクンと沈む。また一歩進んで、沈む。もう鎖骨の辺りまで水に浸っていても、歩みを止められなかった。呼び止める声はいらない。呼吸のための鼻も必要ない。溺れるのは怖くない。彼女を見失わないための目だけが残っていればよかった。よかったのに、砂を蹴る足は無情にも何もない水中に放り出されて、波はオレの姿を飲み込んでしまう。

 最後にもう一度だけ名前を呼ぶ声が聞こえて、それきりだった。

 ◆

 よく響く誰かの笑い声で目が覚めた。一瞬で明瞭になる視界には見慣れた部屋が広がっていて、とっくに覚醒しきった頭が、ここは自宅のベッドの上で、笑い声は外を歩いている女学生か誰かの声だろうと結論づける。いつも通り、鳴る前に目覚めてしまうため特に意味のない携帯のアラームを切ってから、適当な服に着替える。朝食の匂いがするのは、更に早起きをした弟によるものだろうか。
 ずっと同じような夢を見ていた気がする。はっきりとは覚えていないが、旅をするような夢を。そして旅の先には終わりがあって、今朝、終わってしまったんだろう。
 窓から差し込む光は時刻を主張するように灼けている。もう二度と同じ色を見ることはできない。

蜃気楼の器

――目の前のそれが現実だと、誰が証明できるだろう?
――誰も彼もが蜃気楼の中にいるような世界で、真実に価値なんてあるのか。

と、カメラマンの長谷部京輔は常に感じている。
 彼はフリーのカメラマン兼ライターのようなもので、いくつかの雑誌に連載の枠を貰っていて、大儲けというほどではないが困窮するほどでもない生活を送っている。依頼があればそつなくこなし、特集に沿った記事を書く。特にこの仕事にこだわりがあるわけでもなく、辞めたくなるほど嫌悪もしていない。色々な意味で“普通”の人間だ。少なくとも彼自身はそう思っている。
 その日は長期出張の初日だった。長谷部が今回引き受けた仕事は、普段の連載記事とはまた毛色が違っていて、まず非常に報酬が多い。更に内容は本格派を謳っていて、腰を据えて撮影なり取材なりをしなければ間違いなく先方から突き返されるだろう。引き受けた手前半端な仕事ができるはずもなく、こうして現地に宿を借り、1ヶ月ほど滞在することになった。
 都心から特急電車で2時間ほどのその土地は、一言で言うならば田舎だろう。連なった背の低い山々のちょうど凹んだ部分に、ぽっかりと集落ができている。そうは言ってもスーパーやガソリンスタンド、ちょっとした娯楽施設などはあるため、都会の喧騒に嫌気が差した人間などはよく越してくるようだ。畑が点在する住宅地には比較的新しい一軒家が見え、人口もさして少なすぎるほどでもない。長谷部の第一印象で言えば、「中途半端」だった。この土地での目標は、戦場跡にある。過去――500年ほど前だっただろうか――にこの付近では多くの血が流されたと言う。その際に生じた歴史的遺物がこの土地に遺されているらしく、長谷部自ら撮影及び取材にやって来た。“中途半端”であるためか、それとも立地のせいか、インターネットでもあまり情報を探すことができず、なんとか人伝でここにたどり着いたくらいには穴場のスポットである。まだ世に知られていない場所は、容易に新規性が手に入る。
 しかし――

「あつい……」

思わず長谷部は独りごちた。彼は今、とにかく土地勘を掴もうと散策に駆り出している最中であるが、何分今は7月であり気温は30度を越している。更に宿に到着してすぐ飛び出してしまったため、時刻は正午をすこし過ぎた辺りだ。盆地特有の湿気が不快感を増幅させ、ダメ押しのように周囲には低い民家ばかりが並ぶため、暑さを避ける日陰もない。三十路を過ぎた人間の体力では早々に限界が来そうなものだが、宿に戻るよりはどこかの店にたどり着くまで歩いたほうがいいかもしれない……とぐだぐだしている間に、戻るに戻れなくなっていた。道中の自動販売機で購入したスポーツドリンクはとっくに温まりきっている。

「にゃあ」

 そんな長谷部の状況にはいっそ不釣り合いかつ場違いなほど、涼やかな声が耳に滑り込んできた。声の主を追って顔を上げると、右手側頭上――道を形作るブロック塀の上、生い茂る木々の木漏れ日に隠れて、ぶちまだらの猫がこちらを見ていた。茶と黒でまるで汚れたような模様をしているそれを見ながら、長谷部がサビと言うんだったか……などとぼんやり考えていると、猫はふたたび「みゃあ」と鳴いて歩き出した。猫は気ままに軽やかに、この暑さなど問題ではないように歩いていたので、長谷部もなんとなくその猫を追いかけてみた。気分だけでも暑さが和らげば良い。
 並んでいた民家がぽつぽつと減っていき、ついには見えなくなり、舗装された道と木々だけが視界を埋め尽くした。一体どこまで来たんだ、と長谷部は帰り道を案じてため息をつきたくなるが、猫はずっと歩き続けている。まるで道案内をしているような猫は、やがて歩みを止めた。しかし長谷部は猫の方をすでに見てはいなかった。目の前に、ぽつんと佇む古い建物を認めたからだ。
 それは中央にガラス張りの引き戸がついた、昔ながらの木造家屋だった。引き戸の前には簡素に「開店中」とだけ書かれた木の板が立てかけられているため、辛うじてなんらかの店であることがわかる。しかし看板も何も掲げられていないのでなんの店かはわからない。ガラス戸から中を覗き見ようとしても、背後から強い日光が差し込む状態では、少し薄暗い店内の様子を知ることはできない。何もかも謎に包まれた店構えではあったが、不思議とその店はもの場所に馴染んでいた。というより、違和感を覚えない。こんなに唐突に、町のはずれに、一軒だけぽつんと建っているというのに、もしこの店の前を車で通り過ぎても、きっと気づかないだろうなと長谷部は感じた。それほどにこの道の空気に溶け込みすぎている。
 なんの店かは謎であるにせよ、長谷部は長い時間炎天下を歩いてほとほとに参ってしまったため、躊躇いなく店の戸を開けた。なんとか上手いこと店主に休ませてもらおうという魂胆だ。幸いそこそこに取材の経験はあるため、他人の懐に入る技量に不安はない。とにかく疲れていた。

「すいませー……ん……」

店の中に向けて投げかけた声が、段々と尻すぼみになっていく。
 店内の壁は作りつけられたシンプルな棚が埋めていて、そこに茶器やら皿やらが無数に並んでいる。同じように中央にも陶器が置かれた大きな棚が3つほど並んでいて、どれも状態はいいが少しの傷や染み付いた跡があるため、ここが古物店だとわかった。整然と――いや、むしろ素っ気なく並べられた棚の他には装飾らしい装飾もなく、剥き出しの梁や柱が更にその印象を加速させる。店内はほんのりと薄暗い上、木々に周囲を囲まれているためか、この場所自体がぽっかりと空いた“日陰”のようだった。実際に店内は冷房をつけている風ではないのに快適な気温になっていて、なんとなく先ほどの猫が好みそうな立地だな、と思った。居心地に関してはいっそ不自然なほどに馴染む店だったが、問題は人の気配がしないことだ。あらゆる箇所に店主の人間味が見えてこないし、そもそも店内に人がいるか怪しい。看板が立ててあったから開店中であることに間違いはないのだろうが――
(留守か? 田舎じゃ店開けたまんま留守にするのも珍しいことじゃないが……)
人のいない店内に長居するのは正直あまり気が進まない。しかし、未だにギラギラ照りつける太陽と、体に蓄積された疲労と、渇ききった喉が外に出るのを全力で拒み続ける。
(まあ、せっかくだし商品を物色するか)
などと心の中で言い訳をつけて、結局居座ることに決めたとき、“それ”は突然に現れた。

「……いらっしゃい」

いや、おそらく“それ”は突然現れたのではなかった。元々この狭い店内にいたはずだ。いたはずなのだが、存在感をまったく感じられなかった。まるで“それ”が認識することを許したから見えるようになったような、そんな唐突さだったから、突然現れたように思ったのだ。
 “それ”は男だった。中途半端に長い髪と、片目を覆い隠すほど長い前髪、中性的な顔立ちや体つきだけでは性別の判定すら難しいが、かけられた声の低さと、纏った男物の着物がそれを表していた。男はゆったりと和服を着流して、肩には羽織をかけている。年齢の印象はまったく曖昧で、若いようにも、老成しているようにも見えるため、和服が似合っているか似合っていないかも測りかねる。伏せ気味の瞼や色の薄い表情から、かなり陰気に見えてしまって、全体的に印象が定まらない人物だ。なんとなく、この建物の主にぴったりだという気持ちになる。
 長谷部は一瞬驚いて固まってしまったが、我に返ると手に取っていた皿を棚に戻し、男に向き直った。
「あ……こ、これはどうも、気づきませんで。 店主の方ですか?」
「ああ……」
「そうでしたか。良いお店ですね、隠れ家って感じで――」
「売り物を見に来たわけではないんだろう? ……そこに座って、少し待っていろ……」
印象通りに素っ気なく言って、店主は目線だけで隅の小さい丸椅子を指した。そして返事も待たぬまま踵を返すと、店の奥に引っ込んでしまう。歩いた先には勝手口のような戸がついていて、おそらく更に奥の居住スペースが存在するのだろう。
 長谷部は戸の向こうに消えていく背を見送ると、素直に指示された丸椅子へ腰を落ち着けた。どうやら仲良くなって快く休ませてもらおう、という作戦は不要だったらしい。店主は長谷部の魂胆をわかりきった上で、嫌そうにするではなく、しかし歓迎するでもなく、何やら飲み物でも持ってきてくれるらしい。長年店をやってくれば商品目当てではない客も区別がつく、ということだろうか。
(いや、それにしては――)
どこか心の中でも見透かされているような、そんな目だった。しかしそれは長谷部にとって不快なものとは思えなかった。
 ぼんやりと天井の梁を見つめていると、目の前に湯呑みが差し出された。少し視線を上げれば、差し出した本人がこれまた読めない表情で漫然と長谷部を見ている。会釈と軽い謝辞を述べて湯呑みを受け取った。中身はどうやら冷たい緑茶のようで、ご丁寧に氷まで浮かんでいるのに、それを入れているのがガラスのコップでなく湯呑みというのが、なんとも不釣り合いで少し笑ってしまった。こういうところは雑なんだな。

「助かったよ。道中に店らしい店もなかったもんだから」

一気に半分ほどを煽って一息つき、長谷部はそう切り出した。完全に敬語ではなくなっているが、この店主には不要だろうという長谷部の判断だ。
 店主は向かいに同じような丸椅子を置いて腰掛けている。彼もまた湯呑みを手にしているが、中身は熱い緑茶のようだ。この暑いのに奇特な奴だな、と長谷部は思ったが、彼らしい、ともまた感じている。会ったばかりだというのに他人行儀な空気をなくさせてしまう、妙な雰囲気が漂っていた。
「そうだろうな――この辺りは、人通りも少ない……力尽きれば、生きて帰るのも難しかったかも……しれない……」
なにやら物騒なことを呟いて、店主は手元の湯呑みを一口啜る。長谷部は絶句して若干血の気が引いたが、気を取り直して店主を観察する。
 彼は呟くように言葉を紡ぐ。簡単に言ってしまえば声が小さい。口の中だけでボソボソと喋るため非常に声がこもっているのだが、不思議と長谷部は聞き取れないということはなかった。それはこの店が静寂に包まれているからかもしれないし、店主の声が何故だか耳障り良く聞こえるからかもしれない。前髪から除く伏せがちな目は滅多に長谷部の方を見ないが、見たら見たで、どこを見ているのかよくわからない瞳をしていた。長谷部の内部を見透かしているような、むしろどこか遠くを見ているような、その視線は居心地が良かった。長谷部は仕事の都合上、他人と話す機会が多くある。人間は他人を見るとき、他人を見ながらそこに自己をすべり込ませる。内在させた自己をこねて固めて、やっと“他人”を理解した気になっている。そういうものだと長谷部は感じている。だからこそ、他人にまるで自己を映さない、鏡のようにガラスのように映し返す店主の瞳は、新鮮であり懐かしかった。
「あんたは何故こんなとこで店を?」
「さあ……どうだろうな。この場所に理由があるわけではない――ああ」
長谷部の世間話に相変わらずボソボソと返した店主は、思いついたようにガラス戸を通して外を見るように顔を上げた。
「ロキが……ここを気に入っていたから、かもしれないな」
「ロキ?」
「君を連れてきた猫、だ」
その様子を見ていたのか、とか、猫をまるで案内屋みたいに言うんだな、とか、長谷部は色々思うことはあったが、少しだけ悪戯っぽく笑った店主に驚いて口を噤んでしまった。反射的に力んでしまった手で湯呑みが震えて、中の氷がからりと音を立てた。そこでやっと緑茶の存在を思い出して、誤魔化すように一口飲み下した。十分に潤った口を開いてまた問いかける。
「古物屋は好きでやってるのか?」
「随分と質問が多いな……」
「雑誌記者みたいなもんでね。インタビューが癖になってるのさ」
「……仕事熱心だな。店、か……」
そこで店主は、薄暗い店内をぼんやりと見る。それは商品や店内を見つめているというよりは、その先にある何か、得体の知れない何かを視ているようで、今度は落ち着かない気分になった。

「正しいとはなんだと思う?」

唐突に、店主は長谷部に語りかけてきた。長谷部の質問の途中だったので戸惑いはしたが、店主があまりにも空気に馴染んだ問いかけをするものだから、長谷部は己の質問を忘れて、店主の問いに頭を働かせた。

「正しい、って……正義ってことか? 法とか、規則みたいな」
「法や規則は人間が生きるための“型”に過ぎない……その型は時と状況によって容易に姿を変え……時に、信じていた者さえも、裏切ることがある……。それを正しい、と思うか……?」
「いいや、思わないな。じゃあなんだろうな。形のあるもの、とか、目の前にあるもの、とか」
「形あるもの、目の前にあるもの――果たしてそこにどんな価値がある? 君の見ている世界は、すべて虚構かもしれないのに、だ」
「…………」
「世界は、君が思うよりもずっと脆い……遥かに不安定で、誰にもそれを確立することはできない。ならば一体どこに、確かなものが存在するか……」
「……人間の中、か?」
「そうだ。法も規則も、そして世界さえも、決して確実ではない。しかし……己の、その意思ならば、己が存在する限り――保ち続けることができる。たとえそれが、不安定な世界との間にのみ存在し得るものだとしても、己が信じる限りは、それを“正しい”とすることができる……」

 店主は突然饒舌に語り始めた。およそ演説とは言えないほど声に張りがなく、自信に満ち溢れているわけでもなく、相変わらず視線は虚空を向いていたが、言葉には奇妙な確信を持たせる力があった。少なくとも長谷部は彼の言葉をいつの間にか前のめりに聞いていたし、更にこの言葉を引き出したい、と感じている。

「それで、その“正しい”が、どう店に関係するんだ?」
「誰かの手に一度渡ったものは、その誰かの“正しさ”が付随する……自分にとってなんらかの価値があると認めて購入し、少なからず価値があると考えて売却する。それは、“価値”という不確定な要素に支えられたものだが、同時に……人間の中で揺るがない、確固たる意思を背負っている。蜃気楼のように移ろうからこそ、視えるものもある――だから、この店をやっている」

店主はいつの間にか傍らの棚から小さい白磁器のカップを手に取って、指先で弄んでいた。長谷部はというと、店主の掴みどころのない話に首を捻りながら、しかし妙な納得を覚えていた。彼の考える意味の半分も理解できた気がしないが、同時にそれで良いとも考えている。店主の考えていることを“理解しようとしない”ことが、今の自分にとって最も正しいと思える行動だった。長谷部はまた湯呑みに口を付けて、「そいつはすごいな」と軽い調子で嘯いた。
「古物は特に、先の未来が視えやすい。……どういった人生にしたいか、というような相談にも……乗ることができるな……」
「なんだそりゃ。占いや風水までやってるのか」
「まあ、そんなようなものだ」
今度は明らかに適当に流したような口調で、店主が薄く笑みを浮かべる。長谷部もなんとなくしてやったりな顔を浮かべて、残った緑茶を飲み干した。店主は長谷部の手から空になった湯呑みを受け取ると、立ち上がって奥に引っ込もうと歩き出す。その背中に長谷部は少し声を張って話しかける。

「なあ」
「……なんだ」
「おかわりくれよ」

半分だけ振り返った横顔に見える右目がほんの僅かに見開いたのを確認して、長谷部は更に笑みを深めた。店主は呼吸と見分けがつかないようなため息を一つだけ吐いて、完全に長谷部へ向き直って苦笑を浮かべる。

「……図々しい客人だ」

そして再び奥へと去っていった。長谷部はというと、変わらず丸椅子に腰掛けたまま、店主の帰りを待っている。“おかわり”を持ってくるのを微塵も疑っていない様子だった。彼は一人でいる間もずっと笑みが抑えられず、かといって収めようともせず、にまにまと緩む口元をそのままにしている。

(こんなに楽しいの、久しぶりだな)

子供のように躍る心と裏腹に、店内の静謐な空気と混ざり合うように理性は凪いでいて、まるで瞑想をしているようにじっと座っていた。そして目の前にはなみなみと緑茶の注がれた湯呑みが差し出されて、軽やかで厳かに、それを受け取ったのだった。

「俺は長谷部京輔。あんたは?」
「柊――いや……ハリウッド、か」
「変わった名前だな。よろしくな、ハリウッド」

◇◆◇

 それからの長谷部は、日課のように足繁く柊の元へ通った。午前と昼は取材と撮影をして回り、一段落ついて街から人気がなくなった頃、いそいそと街外れの古物店に向かう。初めて出会った日から自然体の二人だったが、翌日以降も変わらず居心地の良い時間を過ごした。長谷部が当然のように店に顔を出すので、柊も当然のように迎え入れて、湯呑みに入れた冷たい緑茶を用意する。時折、長谷部が手土産と称して軽い菓子を持参することもあった。二人の話は取り留めもないものだったが、それゆえ長谷部は仕事のことを忘れて、体も心も休めることができた。柊の様子は相変わらずの冷静さ――というには些か素っ気ないもので、長谷部としては自分がどう思われているのか測りかねた。しかし、柊が訪問を拒んだことはなかったために、少なくとも憎からず思われているのだろうと結論づけている。それに、柊の前では、目の前の自分が好きか嫌いかなんて瑣末なことだろうと、そう確信めいたものを抱いていた。
 それは、長谷部が柊の元に通い始めて半月が経った頃だ。初めてこの地に降り立った頃から変わらず、太陽はあまねく全てを焼き尽くさんとしている。正午よりは少し日が傾いてはいるものの、アスファルトの車道からは熱気が吹き上がって、空気がゆらゆらと揺れている。
「にゃあ」
長谷部が柊の元へと向かって歩いていると、耳慣れた軽快な挨拶が聞こえてきた。まだらの猫――ロキは、初日とまったく同じように、道の途中で長谷部に合流し、彼を店まで先導する。毎日甲斐甲斐しく迎えにくるものだから、使い魔疑惑はあながち間違いでもないかもしれない、と長谷部は一人苦笑したことがある。今日もいつも通り塀を伝って長谷部の前をつかず離れず歩いていくものだと思っていた。しかし、ロキは歩いていた塀から歩道へと降り立ち、そのまま長谷部の方へと向かってきた。
「いて、いてて。今日は一体どうしたんだよ」
長谷部の手前まで駆けてきたロキは、長谷部のズボンにしがみつくようにして爪を立て始めた。布を貫通して皮膚にまで届く爪はもちろん痛いが、それよりも、いつも聞き分けの良いこの猫が珍しく粗相をしている点が気になった。見たところ長谷部自信に敵意を抱いている、という様子ではないが、何かに怯えているような必死さが感じられる。長谷部の足を容赦なく引っかきながら、にゃあにゃあと絶えず訴え続けている。

「まさか――」

嫌な予感がして、長谷部は走り出した。ロキがその後を着いてくる気配を背中に感じるが、構っていられる余裕はない。流れる汗と激しく収縮する器官も忘れて、一目散に柊の店へと駆けていく。
 程なくして、目的の建物へとたどり着いた。一見して建物に変わった様子はなく、いつもの通りに開店中の札が立てられている。しかし、店の周囲を覆う木々はほんの僅かな風にもざわざわと音を立てて、長谷部の胸騒ぎをいっそう大きいものにした。
 蒸し暑い気温と打って変わって冷えきった指先でガラス戸を開けても、やはり店内に異常はない。相変わらず空気は不思議と涼しく、静寂に包まれている。柊の姿は入口からは見えない、しかし――

「……っは、」

小さな呼吸音が、澄んだ空気を僅かに震わす。それは音の主の判別が難しいほど微かなものではあったが、長谷部は疑う暇もなく店の奥へと急いだ。果たしてそこには、地に膝を追って蹲る、この店の主の姿があった。

「ハリウッド!」

長谷部は慌てて駆け寄り、柊の背中に手を添えながら顔を覗き込む。俯いた顔には長い前髪が完全に影を作っていてうまく窺い知ることはできないが、着物の襟から見える白いうなじには、珍しく薄い汗の膜が浮いている。添えた手のひらからは小刻みに震える感触と、調子を整えようとする大きな呼吸の動きを感じる。羽織に隠れて見えなかったが、どうやら胸の辺りを押さえているようだ。
「意識ははっきりしてるか? 待ってろ、今救急車を……」
早口に声をかけて慌てて携帯電話を取り出した長谷部の腕を、柊の震える手が引き止めた。

「おい、そんな状態で我慢なんて――」
「……頼む、このまま…………」

切れ切れに紡ぐ声と、前髪の隙間から射抜くような瞳は、今までに見たことがない必死さを湛えていた。

+++

 コンロの上で、小さめのやかんがしゅんしゅんと音を立てている。茶葉を入れた急須にお湯を移して、開けた和室へと運んだ。部屋の真ん中には布団が敷いてあり、すっかり落ち着いた柊が静かに眠っている。
――結局、あれから医者を呼ぶようなことはなかった。長谷部は初めこそ迷ったが、同じように病弱な姉の看護でこういった事態は慣れていたため、とりあえず様子を見ることに決めた。
 勝手知ったる調子で居住スペースに布団を敷いて寝かせる頃には、柊の顔色は元に戻っていた。苦しみに耐え続けた身体は疲れきっていたようで、まるで息を引き取るように(本当に心配した)穏やかな眠りについた。眠りに落ちた柊の呼吸は極端に気配がなく、意識して耳をそばだてなければ呼吸音を聞くことはできない。この部屋の静寂を取り込んでいるみたいだ、と長谷部は思った。
 店を訪れた時刻から三時間が過ぎている。この時間に姿を消すほど真夏の太陽は殊勝ではないが、いつの間にか降り始めた雨とそれを司るぶ厚い雲に遮られて、窓からは薄明かりが差し込む程度になっていた。それに伴って珍しく気温も冷え込み、寒気の残る背筋を誤魔化すようにして、長谷部は熱い緑茶を啜った。あぐらをかいた長谷部の目の前の柊は目を覚まさない。寒気が気温だけのせいではないことなどわかりきっている。
 更にそこから二時間が経過し、用意した茶はすっかり冷め切ってしまった。長谷部はといえば、何をするでもなく、柊に視線を向けながら遠くを見て、じっと考え事に耽っていた。彼は医者を呼ぼうとした自分を止めた柊の、その目を知っていると思った。遠い昔、彼の姉が発作を起こしたときにも同じような目をしていた。自分に近づく終わりの運命について、抗いたくないと訴えるその目。諦めてしまっているわけでも、面倒に思っているわけでもなく、長谷部の姉や柊は、自らその運命に従うことを“選択”していた。その心根がいかなるものか長谷部には測り知ることができなかったが、長谷部はその選択を是とし受け入れた。そうすることが当然に思えたからだ。結局、彼の姉は生死の淵を彷徨った末に、ギリギリのところで生き残った。意識を取り戻した姉もまた受け入れたような目をしていたので、なぜだか強く印象に残ったことを覚えている。とある作家の元へ嫁いで以来連絡をとっていないが、そういえば元気にしているだろうか、と長谷部は暢気なことを考えた。

「――」

意識が散漫になり始めた頃、柊が身動ぎ一つしないまま瞼だけを持ち上げた。
「ハリウッド! 起きたのか」
「……ああ、世話をかけた」
目を覚ました柊が目線だけをこちらに向けて温度のない礼を述べると、いつも通りの様子でなんでもないように身を起こすので、一瞬介助する手が遅れてしまった。
「おい、あまり急に動くな。体に障るぞ」
「問題ない……助けは不要だ」
柊の肩に添えた手に軽く触れて促され、長谷部は心配そうにしながらも元の位置に座り直した。彼の言う通り、顔には血の気が戻っている(と言っても普段から生気が薄いが)し、動きにも無理をしている部分は見当たらない。しばらく横になって回復したのだろうか。
 柊の具合が良くなったことを確認すると、長谷部はおもむろに口を開いた。

「お前、死ぬのか」

それはおおよそ寝込んでいた人間にかける言葉ではなかったし、口にした本人すら動揺しているほどだが、柊は色のない表情のまま、眉一つ動かさなかった。そしてそれこそが、この空間において最も雄弁な返事だった。
 柊は僅かに口を開いて、再び閉じた。それは何かを言いかけて思い直す仕草であり、柊が見せる表情の中では初めてのものだ。永遠とも一瞬とも感じられる時間が過ぎ、噤まれた口は再び開かれる。

「再会とは、なんだと思う……?」

まったく話の流れを汲み取れない、それは唐突すぎる質問ではあったが、長谷部は静かに柊の言葉を聞いた。それを語ることが彼にとっては今何より大切なのだと、長谷部にはわかっているからだ。

「以前に会った人物にもう一度会うこと……とかいう話をしたいわけじゃないんだろ?」
「……人間を、個人たらしめるものは何か……。変わった変わらないなどと、他人に対し評価を下す状況は多くあるが……その要因の多くは、自身の内側にある。人間が、決まりきった“個人”から完全に脱却できることは……そう多くない。また、そもそも――どんな人間の“自己”も、大抵は幻のようなもので……他人にその全貌を掴むことは……まずできないだろう……。そんな中で変化を感じる、あるいは不変を信じるということは……己の内に投影した、虚構を相手にしているだけだ……」
「ああ、そういったことなら何度か経験があるかもしれない。変わったとか変わってないとか、知ったようなこと言う奴ばっかりだな」
「そう――それは同時に……相手にそうあってほしいという、自らの願いでもある……。相手に変わっていないと願いをかけ、自らの内に存在する虚構との再会を祈る……。再会は、そうした願いの蓄積だ。……だからこそ、己が内を変えなければ、いつでも望むように再会できる……」

取り留めのないことを、大気に溶かすように呟くのは、この短期間ですぐに分析できる柊の癖だ。彼は目の前の長谷部に語りかけているようでありながら、聞かせる気がない語り口調は独り言にも思えた。長谷部はそれに適当な相槌を打って、ゆるやかに流れる時間に身を任せるのが定石だ。しかし、今の長谷部にそんな余裕はない。まっすぐ柊の方を見て、一言一句聞き漏らしたくない緊張で、握った両の手に力を込める。それに――

「だから、」

柊はそこで言葉を切って、ゆっくりと口を閉じてしまった。今の彼は、明らかに様子がおかしかった。相変わらず遠くを見ている視線は、しかしどこか熱に浮かされているようでもあって、語っている言葉は、手渡されるほど身近に感じられた。まるで、

(自分の思いを言葉にしたがっているようだ……)

長谷部が視線を落とすと、掛け布団の上に投げ出された柊の左手の近くには、握ったようなシワが微かに見て取れる。もう開く様子のない唇は注視すればすぐにわかるほど力んでいて、伏せられた睫毛は消え入りそうな印象と裏腹に、確かな決意を湛えているようだ。この先を口にするまい、という柊の態度が、やがて訪れる運命を忘れさせるほど、長谷部には好ましかった。
 後から考えればおかしな話ではあるが、この時長谷部はたしかに、「変わったな」と思った。それはもしかすれば、柊に対しての「変わってほしい」という願いのためかもしれない。しかし、今この場所での長谷部にはどうでもよかったし、未来の彼にとっても、意味のないことかもしれなかった。
 勢いを削がれた雨がぱらぱらと屋根を打ち付けて、やがて満月がその姿を現すだろう。時刻は午後九時になろうとしている。

◇◆◇

 柊が倒れていたその日からも、長谷部の訪問は変わらず続いている。二人の会話になんら変化はなかったが、柊はたびたび発作を起こすことがあった。その度に長谷部が介抱しており、一度も医者を呼んだことはない。柊を蝕む病についても、治るものか治らないものかすら、長谷部は何も知らない。長谷部は聞かなかったし、柊も言わなかった。
 照りつける灼熱の1ヶ月の間を、長谷部は柊と過ごした。店内の丸椅子でぽつぽつと喋ることが多かったが、時には柊の居住スペースに居座ることもあった。常に長谷部は冷たい茶を、柊は熱い茶を、すっかり手に馴染んだ湯呑みに用意した。いつかに柊がかなり古い湯呑みだと語っていたが、詳細についてはよく知らない。柊は掴みどころのない哲学のような話と、長谷部の身の上話を好んでいるようだった。身の上話と言っても大した内容ではなく、仕事で扱った記事や、撮影に訪れた土地や、それに伴った彼の考えなどが主だった。話を聞くたびに柊は遠くを見て、少しだけ目を細めるのだ。初めこそ表情の意味を測りかねた長谷部だが、何度も観察する内にそれが懐かしんでいる眼差しだとわかった。まるで長谷部を通して誰かを思い出しているようで、無性に落ち着かない気持ちになる。長谷部も柊の昔の話を聞きたいと振ってみたこともあるが、途方もないほど遠い昔の、それこそ長谷部が調査中の五百年前の話などをされて、怪訝な顔をする結果となった。直後に柊が肩を揺らして笑うものだから、長谷部はからかわれたのだと、この話題について聞き出すのは諦めた。ただ、その笑みが何かをごまかしているように長谷部には感じられたが、気のせいだと結論づけて、記憶の隅に追いやった。
 その土地に滞在する一ヶ月はあっという間だった。撮影や取材と記事の執筆、柊の店への訪問を繰り返し、長谷部は人生で最も充足を感じている。しかし、そんな生活にも終わりが近づいていた。明日、滞在していた宿を出て、都会へと帰ることになる。

「楽しかったよ、ここにいる間」
古物店の中で向かい合って腰掛けて、いつもの通り手には湯呑みが握られている。明日に出発する話をしていた、その中の発言だった。柊は長谷部の話にも顔色一つ変えず、静かに相槌を打つばかりだった。緩く頷いた動きで、長い前髪がさらりと揺れた。
「悪かったな、なんか……毎日通っちまって」
「構わない……元々、人が来る場所でもないからな……」
そう口にする柊は湯呑みの茶をゆっくり傾けて、静かに瞼を閉じた。空気に耳を寄せるようなこの仕草も、柊の癖だった。微塵も乱れがない柊の様子を、長谷部は焦れた表情で見つめる。
「……なあ、その……寂しいとか、ないのか」
抑えが効かずに、ついにはそんな子供じみた言葉を口にしてしまっていた。言ってしまった本人はしまった、とばつが悪そうに口ごもっているが、柊はそう言われることをわかっていたかのように、静かに笑みをこぼした。
「なんだ……別れを惜しんでほしかったのか」
「いや、まあ……そうだな」
からかっているようで、その実微笑ましく見守るような声音で言われてしまえば、長谷部はますます居心地が悪くなってくる。まるで駄々をこねる子供のようだと自分でも思うが、それを受け入れられないのはますます大人げないので、彼の言葉を素直に肯定した。少し熱の上がってしまった顔を隠すように頬に手を当てた。柊が更にくすくすと声を漏らすので、しばらく熱が下がることはなさそうだ。

「お前は――またここに来るだろう。……別れを惜しむ必要もない」

笑う声音は変わらないが、先ほどのようにからかう様子は一切感じられない。それが当然であり、定められたことだとでも言うように、柊が口ずさんだ。思わず長谷部が勢いよく顔を上げると、柊は眩しそうに細めた瞼と薄く浮かべた笑みで、長谷部を見ていた。長谷部はガラス戸を背にしているため実際に眩しかったのかもしれないが、長谷部にはどうでもいいことだった。
 長谷部にとっては、この地に滞在する一ヶ月がタイムリミットに思えていた。この地を離れ、柊と別れることを柊自身が受け入れた途端に、もう二度と会えなくなってしまうような、そんな焦燥に駆られていた。だからこそ子供じみたことも口にしてしまったし、不安の滲む表情を隠すこともできていなかった。しかし、柊はこの先も長谷部と会うことを望み、当たり前のように語った。それは長谷部にとっての“許し”であり、雲間に射す太陽のように、長谷部の不安を晴らしたのだった。長谷部自身はそんな自分の思いを正確に把握できてはいなかったが、ただなんとなく、こみ上げる安堵に身を任せた。わけもわからないまま静かに涙をこぼす長谷部を、柊は更に目を細めて見つめている。それは彼にしては珍しく、後悔のような、罪悪感のような視線だった。

「悪い、突然。もう大丈夫だ」
「――いや。……京輔、」

目元に残る水分を片手で拭う長谷部に、柊はゆっくりと首を振った。それから立ち上がって、すっかり空になった長谷部の湯呑みを預かる。しかし、おかわりを入れるために奥へ歩き出すことはなく、座る長谷部の前に立ち、じっと彼を見下ろしている。見上げる長谷部には、口を引き結ぶその顔が泣き出しそうに見えた。思わず柊の空いている左手の手首の辺りを握ると、柊の纏う空気がふっと解けた気がした。
 それからは、いつも通りだった。空になった湯呑みを再度満たして戻ってきた柊と、とりとめもない話をして、暗くなってから店を出た。明日の早朝には電車に乗る予定だから、今晩は早々に荷造りをして寝てしまわなければならない。見送るように途中まで隣を歩いてくれたロキに、「またな」と声をかければ、「みゃあ」と返ってきた。宿に戻ればさっさと支度を済ませて、11時前には床に就く。我ながら白状だと思ったが、長谷部は寝るまで柊のことを思い出さなかった。それは暇がなかったからかもしれないし、柊の言葉から得られた安堵からかもしれない。

 都会へ帰ってからしばらく、長谷部の日常は目まぐるしく過ぎていった。記事を提出した会社に打ち合わせをしに行って、自分の記事は受理されたのだが、同じ特集で書くはずだった別のライターが不祥事で蒸発したとかなんとかで、長谷部にもその皺寄せが押し付けられた。そもそもこの会社の所属でもないのにあり得るのか? などと苦々しい独り言を漏らしたりもしたが、世話になっているため無碍にもできず、穴埋めするように自らの記事を大幅に改稿する羽目になった。なんとか仕上げたはいいが今度は身内の不幸があったとかで十何年ぶりに実家に帰ったりして(ついでに姉が元夫と離婚し再婚までしていたことを初めて知った)、心身ともに休めるようになる頃には、照りつける太陽も鳴りを潜めた、秋の入口になっていた。
 諸々の用事が一段落した長谷部は、駅のホームで電車を待っている。平日の朝では相変わらず駅は混雑しているが、片田舎に運ばれていくこの路線を使う人間は少ないらしく、ホームにはぱらぱらと数人が立っている程度だった。右手の切符を懐かしむようにまじまじと見つめ、丁寧に手帳へ挟んだ。彼の休日は柊の元へと訪れることに決めていた。
 電車に揺られること二時間、すっかり昔に感じてしまうその土地に降り立った。今度は宿に寄ることはなく、まっすぐ柊の店へと歩き出した。当然だが一ヶ月程度で歩道も塀も風変わりするなんてことはなく、そこいらに生えている鬱蒼とした木々が少し元気がなくなったように感じる程度だ。目的地までの半ばほどまで歩けば、軽快に木の葉を踏む音と共に、涼しげな声が転げてきた。
「にゃあ」
「久しぶり」
ロキは返事でもするように再度ひと鳴きすると、長谷部の少し前を先導する。時間が経っても同じように迎えに来てくれる彼を、長谷部は嬉しく感じていた。もしかしたら柊が自分を歓迎してくれているのかもしれない、と思ったからだ。長谷部が今日ここに来ることは柊には知らせていない(そもそも連絡先を知らない)ため、そんなはずはないとわかっているのだが。
 同じように向かった先には、変わらない古物店が静かに鎮座している。長谷部は密かに安堵していた。どこか、あの日々が幻だったかもしれないという不安が付き纏っていたからだ。店を囲む木々の中には気の早いものもいて、青々としていた葉をすっかりと赤く染めている。店先の開店中の看板を見つけて、長谷部は足取りも軽くガラス戸の前に立った。引き戸に手をかけたがすぐには開かず、口元だけで小さく深呼吸してから、極力平常心を装って開いた。

「……ハリウッド?」

店の中は記憶のとおり、素っ気なく並べられた陶器類と、不思議にひんやりとした空気が漂っている。柊はいつも店の奥の、居住スペースのある方から出てくるため、覗いてみたが姿が見えない。突然の来訪のため、単に気づいていないか、あるいはどこかに出かけているだけだろうか。長谷部はそう考えたかったが、いつ訪れても、柊は自ら歩いて長谷部を出迎えた。顔を見せなかったのは――

「まさか……!」

さっと長谷部の血の気が引いて、前のめりに歩き出す。あっという間に長谷部の頭の中を嫌な予感が埋め尽くした。もしかしたら歩けない状態なのかもしれない、もしかしたらまた発作が起きて、もしかしたら――

「……おかえり」

奥に向かう長谷部の背後に、ぼそぼそとした色のない声がかけられる。振り向いた先には、棚の整理でもしていたのか、売り物と思しき皿や器をいくつか抱えている、陰気な男が立っていた。まるで「仕方がないな」とでも言いたげに苦笑する表情の意味を、長谷部は知ることはできなかったが、そんなことを考える間もなく長谷部はその場にしゃがみこんだ。
「びっくりさせるなよ……」
「それは……すまないな」
柊は手近な棚に持っていた商品を置いて、大きくため息をつく長谷部の目の前に、視線を合わせるように膝を折る。しゃがんだままの長谷部は少し高い場所にある柊の顔を情けない表情で覗き込むが、柊は変わらず微かな笑みを浮かべていた。長谷部は安心したように頬を緩める。

「ただいま」

少しだけ埃かぶった丸椅子をはらって、馴染んだ調子で腰掛けた。そこから先はいつも通りで、また柊と話ができることを、心から嬉しく思ったのだった。

◇◆◇

 更に一ヶ月が経った今でも変わらず、長谷部は暇になると必ず柊の元を訪れている。最低でも週に一度は顔を見に、時には仕事を持ち込むこともあって、文字通り”入り浸る”という表現が正しいほどだったが、柊はそれを咎めるどころか喜んでいるように思った。
 歩道に木の葉を散らす木々はすっかりと衣装を変え、ほんのりとくすんだ赤色が視界の端を占めている。しばらく取り掛かっていた仕事を終えた長谷部は、いつものように柊の店への道中を歩いていた。初めてこの道を歩いたときとは打って変わって、乾いた冷たい空気に入れ替わろうとしている。もう間もなく冬が訪れるだろう。過ごしやすい季節だというのに、秋の逃げ足はめっぽう早い。
 風の冷たさに比例して、柊の発作が多くなってきたように思う。身体に障る時期だから当然かもしれないが、それでも長谷部は気を揉まずにいられなかった。そんな身体だというのに、柊の格好がいつまでも夏と同じような装いであるせいかもしれない。冬にも変わっていなかったらさすがに怒ろう、と長谷部は決意している。
 店に到着すると、柊が自ら歩いて出迎えてくれたため、長谷部は内心ほっとした。そんな長谷部の内心を知ってか知らずか、慣れた様子で茶を入れるため奥に引っ込んでいく。
 いつもは丸椅子に腰掛けてじっと柊を待つ長谷部だったが、今日は壁に作りつけられた棚の一点を見つめ、おもむろに商品を手に取った。それは盃だった。手の中にすっぽりと収まるほど小さいそれは、なめらかな白い陶器の肌に、紺色の線で桔梗の描かれた代物だ。古物の価値に精通していないため長谷部に値段のほどは計りかねたが、気になった点は高級品か否かなどではなかった。
「なあ、なんでこれは売られたんだ?」
二人分の茶を入れて戻ってきた柊に、振り返りざま問いかける。柊は一瞬不思議そうな顔をしたが、長谷部の手に握られた盃を見て合点が行ったようだった。
 盃には金継ぎの跡が残っていた。しかも小さいものが複数箇所あり、継ぎ目は極力目立たないよう繊細に施されていた。腕の良い職人に任せていたのだろう。そんな風貌の盃が、汚れひとつ見当たらない。丁寧に手入れされていた様子だった。素人の長谷部でも、長い間大切にされていたものだと見当がつく。それが今、古物店に売られているという様子が、妙にアンバランスだった。
「それは……遺族が持ち込んだものだ……」
柊は静かに語る。代々受け継がれた盃を祖父から譲り受けた持ち主が病死した際、遺品の整理をしていた遺族が見つけ、売りに来た。遺族曰く「彼のように大切にできる気がしない。誰か他の人に大切にされた方が、この盃も本望だろう」とのことで、これを手放したそうだ。長谷部から言えばそんなものは建前で、少しでも金になればと思ったんだろうことは想像に難くない。しかし、柊にとってはそんな本音や建前など瑣末なことに過ぎず、ただ静かに、盃に満たされた歴史を飲み下しているようだった。

「受け継ぐ、というのは……そういうものだ」
「え?」

唐突な話の切り替えに、長谷部は戸惑ったが、それはどうやら長谷部の考えていたことを見透かした上での言葉のようだ。末恐ろしいな、と思いつつ、長谷部はその先を促した。柊が緩慢な動作で頷く。
「次の主に思いを受け継ぐ……よくある話だが、それは所詮……譲り渡す側の願望であり、幻にすぎない……。譲渡する側と、される側……その両者の精神には必ず……明確な違いがあるものだ。人はそれを無意識にでもわかっているからこそ、変えないでほしいと思いながらも、よりよく変えてほしいとも……思っている」
「……」
「……受け継がれる物に込められているのは、意思などではない……。それは、願いだ。未来に繋いでほしいという、何かを変えてほしいという、望みだ。だから、たとえ責任の重さから逃れるためだとしても、はした金を受け取るためだとしても、どちらでも変わらない……。その器には、多くの時間とともに、すべての持ち主の願いが満たされている」
ガラス戸の外の光をぼんやりと見つめている柊は、まるで自分を語るように饒舌だった。口元を覆い隠したような、ぼそぼそとした声量は変わらなかったが、長谷部はそう語る柊の目に宿った光を見逃さなかった。それは長谷部が初めて、柊が柊自身のことを話してくれたような、そんな実感を得た瞬間だった。

「これ、俺が買ってもいいか」

気がつけばそう口にしていた。思わず、といった具合ではあるが、それは長谷部自身の心のままに放った言葉だったから、驚くこともなく柊を見た。柊は外から長谷部へと向き直り、ほんの少しだけ、目を見開いた。それから口元をゆるめて、ゆっくりと目を閉じた。柊からこれほどに強い感情を向けられたのは、この先にもついぞないかもしれない。それは喜びだった。
「……ありがとう……」
それが店主としての言葉でないことくらい、長谷部にはわかっている。桐の箱にしまい込まれたそれを、長谷部は厳かに受け取った。柊自身から手渡されたそれを、大切に抱えているとなぜだか泣きそうになったが、ぐっとこらえた。

◇◆◇

――あの暑い日を覚えている。蜃気楼の向こうに置いたはずの心は、いつの間にか幻そのものを美しいと思ってしまった。その心だけは本物だと、彼ならば言ってくれるかもしれない。

 柊にも長谷部にも、その時が近づいていることは気づいていた。そしてそれから目を逸らすことは、おそらく彼ら自身が、最も許し難いだろう。

 冷えた空気が肌を突き刺していく。灰色に濁った空からは軽い雪が次々に落ちてきて、木々の色を失くした道を白く染め上げようとしていた。柊の元へ歩く長谷部は傘も差さず、降り注ぐ雪に身を任せ、歩道よりも白く曇る息をひとつ吐いた。この辺りの雪は風が吹かない限り積もりやすいらしく、わざわざ誂えた雪道用のブーツで、転ばないよう慎重に歩を進める。
 十二月の終わり頃、世間がにわかに騒がしくなるこの日も、長谷部は柊の元へ訪れようとしていた。なんの誘いもなかったと言われれば嘘になるが、それよりも柊に会いたいと思った。それは前向きな感情であるとともに、まるで追い立てられるような、焦りのせいでもあった。長谷部はそれをうっすらと感じているし、柊自身には更にはっきりとわかることだろう。
 道の半ばにたどり着いても、ロキの迎えはなかった。寒さに弱い猫のことだから、動けなくても当然かもしれないが、しかし長谷部にとっては、それは宣告のように感じられた。

(今日で最後かもしれない……)
 
突然でもなんでもない、決まりきった出来事だった。
 古物店にたどり着けば、店の前の札は閉店中と書かれていた。長谷部の記憶にある限りそれは初めてのことで、なんだか見ていられなくて裏返して立てかけ直した。ポケットから手を取り出して引き戸の取っ手に触れる。手袋をしていないためかじかんでいるはずだったが、その手は震えてはいなかった。戸を開いた先、果たしてそこには、長谷部の予想した通り、柊は迎えに来なかった。声をかけずとも、長谷部にはその意味がわかっていた。頭と肩の雪を簡単に払って、ため息をひとつつく。無意識に詰めていた呼吸を促すためであったが、わずかに安堵の色を含んでいることを、長谷部自身も知っている。
 誘われるように、店の奥へと歩みを進めた。いつもの丸椅子は、奥の会計机の横に並べて置かれていた。その様子だけは、長谷部の心臓をひどく締め上げた。更に奥にひっそりとある扉を開けると、蝶番がすすり泣くように声をあげる。聞き慣れた音だった。ドアの先は靴を脱ぐスペースの他は一段高くなっていて、木の板の床と襖で構成された、小さな和式の居住区だ。入ってすぐ目に入る左手の襖の先が柊の寝所である。何度も訪れたこの場所は、こんな日であっても特別な気配など一切なくて、いつも通り素っ気ないままだった。だからこそ長谷部はいつも通りに、その襖を開いた。

寝所である和室の中心には一組の布団がしかれていて、その上に柊が静かに横たわっていた。長谷部にとって見慣れた光景だったが、今日のそれがいつも通りでないことは、ここに来る前からわかっている。足音を立てようと目を覚ます様子のない柊の側へ腰を下ろすと、大きく息を吸った。

「おい、起きろよ」

語りかける声は長谷部が思う以上に和室全体を震わせた。それはまさしく長谷部の思いの強さそのものであり、最後にもう一度だけ声を聞きたい、縋るような願いだった。
 一瞬の後か、それとも一時間か、曖昧な時間が過ぎて、勿体ぶるように柊がゆっくりと両目を開く。目を覚ました姿勢のまま、柊は視線を動かさない。しかしその意識がはっきりしていることは、長谷部にはよくわかっていた。

「もういいのか」

あまりにも端的な長谷部の言葉はまるで会話になどなっていなかったが、二人の間には他の誰にもわかり得ない、通じ合う何かが出来上がっているようだった。柊はその言葉に耳を傾けるようにして、再び目を閉じた。かけられた布団の胸元が一際大きく上下する。

「元々……ほんの少しの間だけ与えられた、奇跡と呼ぶ他無い時間だった……。むしろ、長すぎたくらいだ……」

柊の声には悔いや未練がなかったし、その表情に終わりへの恐れは見られなかった。ただただ運命を受け入れるその姿が、今の長谷部にはなぜだかひどく腹立たしく、また悲しく思えた。

「そうじゃないだろ」
「……なに……?」

長谷部は夢中で、半ば絞り出すように言葉を紡ぐ。彼自身は、自分の頭に浮かぶこの感情が、言葉が一体何に由来しているのかわかっていなかったが、それでも声を発することをやめられなかった。

「お前はこうして、またこの世界に存在することができたんだろ。それはお前の意思がそうさせたんじゃないのか。いつもいつも運命だ世界だって、こうして会えたんだからもうそんなもの捨てちまえよ」
「京輔……」

長谷部にはもう何がなんだかわかっていない。言葉が理性を追い越すごとに、その声は悲痛さを増していく。喉を引き絞るように発せられる叫びは、すでに子供の駄々と同じで、理屈もへったくれもない、支離滅裂なわがままだ。そんなことは長谷部にもわかっていた。わかっていたけれど、最後に言わなければならないと強く思った。ずっと言えなかった言葉を。

「奇跡とか偶然とかそんなんじゃないんだよ。お前が強く望んだから叶ったんだ。これが夢でも幻でも、俺がお前と再開できたのは間違いないんだよ。俺の中のお前と、今のお前と、何も変わってなかった。だからいいんだよこれで!だから……お前の、望みを、願いは、」

勢いに任せた言葉たちは、次第に砕けて意味を成さなくなっていった。それは長谷部の思いが途切れたわけではなく、その涙によるものだった。彼は恥も外聞もなく、顔をくしゃくしゃと歪めて泣いていた。それでも止まない洪水のような声を聞いて、柊は長谷部を静かに見つめた。その瞳はかすかな驚きと一緒に、慰めるような色を含んでいる。こんな状態にあって尚、いっそ緊張感がないほど、柊は長谷部をあやすように手を伸ばして、止めどなく涙の溢れる頬を撫でる。そうすれば長谷部の眉尻がいっそう情けなく下がって、柊は困ったように笑った。
 長谷部は必死だった。自分の思いを伝えようとしても、内側から溢れてくる意味のわからない衝動に押し流されて、自身の願望を上手く掬いだせない。何かがあったはずだった。柊と出逢ったときから抱いていた、たった一つの望みが。すべてが夢のようで蜃気楼のようで、一瞬の後には消えてしまいそうな世界でも、絶対に失くすことのできない願いが。それは長谷部の与り知らぬ長い長い間大切に仕舞っていて、埃被って見えなくなってしまうほどのものだった。
 長谷部の苦悩を柊は知ってか知らずか、長谷部に触れる手はますます優しく、彼を宥める。長谷部がそれを思い出せるまで待ってくれると言わんばかりの、甘やかすような視線だ。涙は相変わらず流れ続けたままだが、長谷部の顔には笑みが浮かんでいた。泣いているのか笑っているのかわからない、不格好な表情ではあったが。

「俺は、お前が、」
「うん」
「お前に、」
「うん」

柊の声はどこまでも優しかった。目はすべてを包み込むように細められた。頬に添えられた手は今までで一番暖かくて、血の通った人間である事実が長谷部の心を揺さぶった。それから、すとんと落ちるように納得した。とても簡単な、子供みたいな願いだった。

「お前に言ってほしかった」
「うん」
「俺と会えてよかったって」

それだけだった。それが長谷部京輔という魂が残した願いの、たったひとつだった。それだけを言って、長谷部は口を閉じた。彼の瞳は風のない水面のように静かだ。しかし今度は柊が、その目を零さんばかりに見開いている。照明を受けてきらきらと反射する瞳が綺麗で、長谷部は思わず前のめりになって、柊の目尻に触れた。一粒だけ、静かに雫が落ちた。

(やっとだ)

長谷部の心はすべて満ち足りた。柊のその顔が見られたのを、長谷部はきっと忘れないだろう。たとえどんなに長い先の未来であっても。ふと、あの盃が思い浮かんだ。あれを気に入ったのはきっと、柊に似ていたからだ。
(俺はお前を、少しでも満たせただろうか)
柊は長谷部を見つめて、長谷部も同じように見つめ返した。彼らはとっくに覚悟を決めていた。柊は己に添えられた長谷部の手を自分の手で掬い取り、これで十分だと言うように、柔らかく握った。

「京輔」
「なんだ」

握った長谷部の手に額を押し当て、柊は呼びかけた。長谷部はこれ以上ないほど甘やかに返事をする。先ほどと立場が逆転していて、二人は同時に失笑した。続く言葉が、柊の最後の言葉になるのだろうか。長谷部は少しだけ、握る手に力を込めた。

「また会おう」

欲望の濁流に押し流されてしまいそうだった。それは強すぎるあまり呪いとも言えるような願いであり、意思であり、彼自身が初めて見せた、彼だけの欲だった。有り余る歓喜で長谷部の心は引き千切れそうに叫んだ。柊がまるで遊びに行く約束をする子供のような顔で笑うので、長谷部も心のままに笑った。それで最後だった。

 いつの間にか長谷部の意識は途切れて、暗闇へと放り出された。

◇◆◇

 長谷部京輔はカメラマンである。懇意にしてもらっている雑誌の連載企画の関係で、とある街に訪れている。そこは山々に囲まれた片田舎で――と言っても中途半端に利便性のある――都心から電車で二時間ほど揺られた場所にある。彼は一年前にもこの土地で撮影したことがあるが、今回は別の企画を用意されている。なんでも田舎の実態に関する特集をするとかなんとかで、自分の元にこの辺鄙な田舎の依頼が舞い込んできた。舞い込んできたというよりは押し付けられたに近く、中途半端なこの場所は、特徴がなさすぎて誰も書きたがらなかったみたいだ。
(人を便利屋みたいに扱いやがって……)
心中で独りごちるが、そんな悪態で腹立たしさが収まるわけでもない。首からぶら下げたカメラといくつかの荷物を持って、自分が一週間ほど滞在する宿に向かった。
 車は少ないが活気はそこそこにあり、しかしやかましいということはなく、なんというか――のどかだ。相変わらず中途半端な場所だ、と長谷部は思った。撮影のために、午前は街を歩き回ってみる。ついでに以前の滞在での土地勘を取り戻すためだ。
 さて、この地形はいわゆる盆地である。季節は七月、時刻は正午を回っていて、真上の太陽は燦々と、いや爛々と、景気よく世界を照らしまくっていた。

「あつい……」

そう漏らした声は誰にも聞こえるはずはなく、ゆらめく熱気とともにアスファルトへ吸い込まれていった。当たり前のように湿気は高く、汗を吸い込んだシャツが肌に貼り付いてこの上なく不快だ。そんな中、長谷部は民家も店もない街外れの歩道をとぼとぼ歩いている。木々だけがやたらと元気で、ぬるいを通り越して温かくなったスポーツドリンクは、ちゃぽちゃぽと音だけは涼しげに響いた。首にかけたカメラのストラップが鬱陶しい。しかし手に持つことも叶わず、腹の辺りで揺れるままにしている。

「にゃあ」

塀の上の木陰から声が転がってくる。落ち葉を踏みしめる音とともに現れたのは、薄汚れたサビ猫だった。猫は更にひと鳴きすると、長谷部に背を向けて彼の少し前を歩き始める。まるで着いて来いと言わんばかりの様子に、長谷部は素直に従った。
 程なくして、長谷部はそこへ辿り着く。鬱蒼とした木々の隙間に、まるで隠れるようにして木造の家が立っている。ガラス張りの戸は民家でないことを示しているが、看板も何も立っていないため、店であるともわからない。その前に、建物をぐるりとツタが囲っていて、相当に古く、人の手を離れてから時間が経っていることを示していた。長谷部がおそるおそるガラス戸から中を覗き見ると、中には棚らしきものが作り付けられてあるようだが、特に何も並んでいない。そのまま引き戸を開け放てば、積もった埃が勢いよく舞い散った。咳き込みつつ改めて中を窺っても、どう考えても人が出入りしてる場所ではなかった。放置されて5年以上は経過していそうだ。天井の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされて、作り付けられた棚板も劣化してぼろぼろに崩れかけている。奥にひっそりと置かれた二つの丸椅子は、使われていないことを示すように、材料の木がささくれ立って、やはり埃が積もっている。
 長谷部は一番マシに思える会計机に荷物を置いて、ぶら下げたカメラで写真を撮った。何かを刻むように、あるいは、写真を通して自分の記憶をこの場所に刻みつけるように。気が済むまで撮り終えると、今度は荷物の中から花束を取り出して、丸椅子の上に乗せた。同じく取り出した桔梗柄の盃にペットボトルの水を満たすと、花束の上にすべて垂らした。儀式めいた一連の行動だったが、長谷部自身には特に理由などない。ただ単に、大切にしたいという思いを形にするための、継ぎ接ぎな行為だった。
 埃っぽい中、満足げに大きくため息などついたので、思い切り咳き込む羽目になったが、なんとか持ってきた荷物を持って外へ出ると、店先には先ほどの猫がちょこんと座り込んでいた。

「久しぶり」

長谷部は猫をひとなですると、抱えてきたものの中で一番大きい荷物――ペット用のキャリーケースの中にその猫を招き入れて、再び抱えて歩き出した。慎重に運ばれるケースの中で涼を取る猫と裏腹に、暑さに身を任せながら、長谷部は住んでいる場所のペット相談に思いを馳せている。
(駄目だったら、最近仲良くなった姪やその知り合いにも当たってもらおう)

 夏は暑さとともに狂おしいほどの幻を連れてくる。幻は果たして現実だったのか定かではないが、それを美しいと感じた自分は本物だ。少なくとも、長谷部はそう願ってやまない。

「ああ、会いたいなあ」