龍が如くSS

龍の目(桐真)

 決して折れることのない不滅の眼差しが、真正面から射抜いてくる。

 1、2、3。まるでダンスでも踊っているかのような軽快さに、しかし勢いと重さを乗せて、目の前の男を翻弄する。上から、下から、横から、予測の難しい奔放な攻撃を、男は的確に捌きながらも、僅かな隙を見逃さない。男めがけて高く振り抜いた右足に沿うように拳を押し出す。寸でのところで上体を反らすことでその拳を避け、ついでに喉から「ヒヒッ」と笑い声を漏らす。崩れた重心をそのままに地面に手をついて、回転しながら男の脛の辺りへ蹴りを繰り出しても、やはり避けられた。勢いを利用して体勢を整える。間合いを取って、お互いに大きく息を吐く。

「ゴッツいのぉ、桐生チャン」
「…………」

 肩で息をする相手は、今この時も自分から目を離さない。
(また、その目ェかいな……)
 自分と互角――いやそれ以上の桐生との喧嘩は、一瞬たりとも気を緩めることができない。まして闘いの最中に相手から視線を外すなど以ての外。桐生もそれは同じなのだろう。喧嘩中は、必然的に桐生と何度も視線を絡ませる。バチリと音がしそうなほどの熱量とともに。
 以前に桐生の目は光を失っていないと言った。それは2年ほど経った今でも嘘になっていないし、そんな桐生の目を好ましく思っている。それはもう、嫌になるほど。
 桐生の目は真っ直ぐだ。ただ真っ直ぐなだけでなく、様々な澱を沈めて尚、不屈だ。これまでに幾度となく大切なものを得、そしてその多くを失い、何度も折れかけただろう。しかし絶対に光を失わなかった。継ぎ接ぎの意志は相まみえるたび強固になる。どんなことがあっても、この男は得ようとする。守ろうとする。くらくらするほどの馬鹿正直な生き方だ。
 息を整えた桐生が、ぴんと張り詰めた眼差しをこちらに向ける。冷たいほどに熱い、闘志と、興奮と、そして少しの。
(わかりやすいやっちゃ。ホンマ)
 世界で5本の指に入るほどわかりすいこの男の、自分に向ける眼差しの意味に気づけないほど鈍くはない。めらめらと奥に燻るような思いには覚えがある。何故なら自分もまた、この男に同じ感情を抱いている。
 桐生がアスファルトを蹴って、こちらの懐に潜り込んできた。咄嗟に顎を打とうと持ち上げた膝はいなすように右手で横へと払われ、何も身につけていない胴へ桐生の拳がめり込んだ。まともに食らった。せり上がってくる胃液だか血だかをぐっと飲み込み、よろけてたたらを踏んでしまうついでに後ろへ下がった。桐生がそろそろ終わりかと言いたげな視線を寄越す。まだ終われるわけがないだろう。挑発的な笑みを浮かべれば、桐生は見慣れた構えを取った。話が早い。
 拳の隙間から桐生がじっと見据えてくる。視線の中に含んだ思いは、喧嘩が始まるときからずっと変わらない。否、もっと前からだ。明け透けで隠そうともしていないのかもしれない。
 ごめんだった。多少の種類の違いはあれど、自分を強く求める桐生の目は、他の――桐生が守り、そして時に守りきれなかった多くの大切なものを見るときと同じだ。その眼差しを注がれては、まるで自分が桐生の大切な、輝いていて、美しくて、慈しむべきものにでもなったような気持ちになる。馬鹿らしい。その目を向けるべきは自分ではない。
 自分があの目に弱いことは十分にわかっている。だからこそ、のらりくらりと先延ばしにしてきたわけだが、そろそろ潮時だろう。瞳の奥の情動は濃度を増している。この喧嘩が終わったときか、次に会ったときには、桐生はその胸中を開示する。元々回りくどいことが苦手な男だ。自分を本気で得ようとするこの男から、逃げられる自信は正直、ない。

「兄さん、」

(あ、)
 まずい。目算を誤った。桐生は喧嘩を終える前に、今この時に、決着を付けようとしている。なんて我慢のできない男だ。考えるより前に、自分の足が地を蹴って、持ち前のバネで高く飛び上がる。虚を突かれた桐生の元へ着地するように高度を下げると、桐生はあっさりと仰向けに倒れ込んだ。背に昇る応龍が軋む音がする。倒れた桐生の腹に馬乗りのまま、その目をじっと見つめる。

「……!」

 上体を傾げて瞼を降ろさぬまま桐生と唇を重ねれば、大きく見開いた瞳が動揺で揺れている。気分がいい光景だった。
 そう、この男はどこまでも鈍い奴で、こちらの思いになどまったく気づいていないことこそが、自分のアドバンテージだった。不意を突くのは容易だ。動揺から醒めやらない桐生を眺めて、自分の笑みが深くなるのを感じる。
 龍の目にとことん弱いのだから、きっとこの男の求める願いを、これからも受け入れてしまうのだろう。しかし負けっぱなしは自分の性に合わない。どんな隙でも見逃さず、貪欲に勝利を望んでこそ真島吾朗というものだ。

「桐生チャン、よぉ聞けや」

 組み敷いた男の間の抜けた顔が目に映る。まずは1つ、勝ち星をもぎ取ろう。

未読(桐真)

 眠らない街神室町。日が落ちた程度ではこの街の明るさを奪うことなどできない。太陽光よりもギラギラと目に痛いネオンは、しかし今日の自分の気分ではない。自然と人のいない方、より静かな暗がりへと足が向かう。
 左手に代わり映えしない工事現場のバリケードを眺め、その先にある西公園が見える。げっ。思わず顔を顰めてしまった。

「おお、桐生チャンやないか」

 西公園でいつも火が焚かれているドラム缶の、その傍らには常日頃自分を追い回す兄貴分の姿がある。手袋越しの指に吸いさしの煙草を挟んで、幾分かリラックスした姿勢だ。しかしこの男のスイッチは何がきっかけで入るかわからない。今日は暴れる気分でもないのだ。喧嘩を売られる前に、さっと踵を返す。

「ちょ、ちょお待てや。今日は喧嘩する気分やないねん。なんもせえへんから、休憩に付き合うてくれんか?」

 所構わずハイテンションで喧嘩を吹っかけてくる真島の珍しい態度に驚いて、返した踵を元に戻す。こちらをじっと見るその眼差しには覇気がなく、眉尻も戸惑い気味に下がっている。約束を違える男ではないから、この休憩で何か手荒なことが起こる心配はなさそうだ。こちらの反応が過剰とでも言いたげな声色には納得がいかないが、好奇心が勝って「いいぜ」とだけ短く返事した。

 真島と同じようにドラム缶の側に立って煙草を口にくわえると、隣から火のついたライターを握った手が伸びてくる。面食らってぱちりとひとつ瞬いたが、厚意に甘えて顔を近づけた。吸いなれた匂いが鼻をかすめる。
「アンタに接待してもらえるとはな」
「こうでもせんと、桐生チャン帰ってまうかと思ってなあ」
 わざとらしくしなを作った声で真島が答える。ご機嫌取りの類を嫌うこの男のことだから本心ではないとすぐにわかる。自分をもてなしたい故の行動だろうか。時折見せる真っ直ぐな好意に、思わず顔が綻ぶ。
 ライターをしまった真島が紫煙を吐き出しながらぽつりと話しはじめる。「今日な、」と呟くような声がする。
「なんか寂しいねん。事務所だーれもおらんし」
 ぼんやりと焚き火を見つめる瞳に感情は読み取れない。本当に寂しがっているかどうかは伺い知ることができないが、真島がこうして寂しさを口にするのは度々ある。冗談めかしてるようにも、本気で寂しさを埋めたいようにも聞こえる。

「せやから、桐生チャンがおってくれて助かったわ」

 こちらを見てにっと笑う。喧嘩中にいつも見ているはずなのに、初めて見たような笑顔だ。実際に落ち着いた状況下で見たのは初めてだったのかもしれない。歯並びが綺麗だとか、目を細めると涙袋が目立つとか、細かいことに気づいた。ひと呼吸置いて発言の意図を噛み砕き、隣にいるのは自分以外の誰でもいいと言われているようで、項の辺りがちり、と焼ける気分になる。口にくわえている煙草をひと吸いして、燃えて短くなるそれに自分を重ねた。「自分は特別」と言われたかったのだろうか。どうかしている。いつも通りじゃないこの場なら、調子も狂うというものだ。真島がすっかり短くなった煙草をドラム缶の中に捨てる。自分を煙草に重ねたばかりの身には、なんだかその気のない動作が無性に物悲しい。
 ドラム缶を名残惜しむようにじっと眺めてしまい、こちらを見つめる真島の視線にやっと気づいた。少し首を傾げて、覗き込むように不躾な好奇心を浴びせている。
 視線の真意を図りかねて問いかけようと口を開いた、その隙を縫うように、真島の手がこちらの口元に伸びてくる。唇に挟んでいた煙草を器用にさらっていく指がスローモーションに見えた。革手袋についた真新しい傷は多分、この間の喧嘩のものだ。
 煙草を攫った指はそのまま真島の口元へと帰り、今まで俺の口に収まっていたフィルターは、真島の唇に差し込まれている。自然に流れていく動きからどうしても目が離せなかった。金縛りにでも遭ったように、指の一本も動かせない。声も出せない。俺の煙草を吸い込む真島を見つめた。瞼が伏せられ、普段は目立たない睫毛が焚き火の炎にちらちら揺れる。眼差しはなぜか科学者のような真剣さをたたえている。瞼を完全に伏せて味わうように深く息をついた。口の端から細く煙が漏れている。
 再び煙草が真島の指に挟まれたと思ったら、すとん、とそれを俺の口に差し込む。返された。吸い慣れた味の中に、僅かに真島が漂わせる匂いが混ざる。
「……なんだよ」
 金縛りから解放され、やっとのことで絞り出した一言は、幸いにも震えていたりなどはしなかった。目の前の男はすいっと片方だけの目を細める。焚き火に向けていない右目は暗く灯されているが、どことなく優しい色合いをしていると思った。
「ん、桐生チャンの味はどんなんやろなー、と思って」
 薄く開かれて弧を描いた唇から舌が覗いている。当たり前だが二股に分かれていたりはしない。同じ人間のはずなのに、真島がその胸元に抱える白蛇のような、底なしの食えなさを感じた。
 直後、真島によって発された「ふああ〜」という気の抜けた欠伸によって、空気が完全に弛緩する。
「なんや眠なってきた。帰って寝るわ」
 あまりに唐突な展開に一言も発せないでいるこちらに目もくれず、あっという間に公園から歩き去った真島は振り向かずに片手だけを挙げて、「ほな」とだけ言った。やっぱり一瞥もしないまま、その背は見えなくなる。
 真島のいなくなった方向の薄明かりを眺めて、ドラム缶に吸いさしを放り投げる。半ばまで吸われた煙草は炎に包まれ、姿を消した。煙草が収まっていた唇がじんじんと痺れる。

「読めねえなあ……」

 なんの勝負もしていなかったはずなのに、下手すると喧嘩よりも強く敗北感を味わわされた気がする。
 ともすればぐらりと来そうな熱さをぐっとこらえた。焚き火の熱にじりじりと頬を焼かれた、のだと思う。

難しい人(冴島の話をする真と西田)

「親父は、冴島の叔父貴の他の兄弟のことどう思っていらっしゃるんですか」

 扉を一枚隔てて、少し音量を落としたジュウジュウと肉の焼ける音と、途切れることのない賑やかな声が響いてくる。
 馴染みの焼肉屋の一角。個室として設えられたそこで、自分の親父――カタギ風に言うならば上司にあたる人と、面と向かって座っている。見る者が見れば萎縮しそうな光景であるし、自分も目の前の人物に気圧されることは多々あるが、こうして二人きりで食事をすることは一度や二度ではない。少なくとも他の組員よりは上手くやれている、と思う。
 正面に座って網の上の肉を弄くり回しては俺の皿に適当にぽいぽい投げ込んでいた親父は、今は片方だけの目を細めて、怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでいる。並の人間であれば半殺しを覚悟するかもしれない顔つきであるが、これもやはり慣れたもので、少なくとも殴りかかるような機嫌ではないはずだ。あまりびくびくし過ぎても親父の機嫌を損ねる。あえて平然とした素振りで肉と米を一緒に口へと運んだ。

「お前、たまーに意味わからんこと聞きよるなあ」
「そうですかね……」

 なんとも言えない顔つきのまま口を開いた親父は、返答ともとれるようなとれないような言葉を吐き出した。質問した自分としてはあまり変わったことを聞いたように思っていなかったが、そう言われると自信がなくなってくる。「答えたくなければ、大丈夫ですので」と言うと、「別にええけど」と返ってきた。今日はちょっと機嫌が良さそうだ。
「まあ、聞いたことはあるけどな」
 それだけ言って、目線を斜め上に向けて閉口する。言葉を探しているようだ。言いあぐねているというよりは、ピンと来ていないらしい。
「他の兄弟分……みたいなのって、嫌……だったりしないんですか」
 ぼんやりとした質問にイライラし始めた様子だったので、説明を付け足す。さすがにこのようなことをはっきり聞くのは躊躇ったが、主旨を理解できた親父は得心がいったのか、若干すっきりした顔に変わる。そしてすぐに「アホくさ」とでも言いたげな表情を浮かべた。よく動く表情筋だ。意外にわかりやすい、と思うことが結構ある。

「西田お前……俺がそない小さい男に見えとったんか? アホらし」

 怒りよりは興が削がれたという風体だ。親父に認められていたい自分としては、こういう突き放したような顔が一番心に来る。若干のダメージを負いながら「そういうわけではないんですが……」と絞り出せば、眉間に皺を寄せたまま親父が手元のビールを一口煽った。
「親父にとってはたった一人の兄弟分じゃないですか……何か思うところくらいはあるのかな、と」
 苦しい言い訳のように言葉を繋げると、自分を貶めるような意味の質問でないことを納得したのか、ぎゅっと絞られていた眉間が少し緩んだ。理不尽な行動の多い親父だが、落ち着いて話すときには敏い面がよく表れると思う。
「思うところも何も、アイツ元々そういう奴やで」
 親父は網の端で黒焦げになっていたホルモンを拾って躊躇いなく口に運ぶ。親父に黒焦げを食わせてしまったことを焦る俺と裏腹に、「うま」と小さく声をあげて咀嚼している。
「懐に入れたが最後、何がなんでも面倒見るっちゅー正真正銘のアホやねん。馬鹿正直で絶対曲げへんしな」
 愚痴る口調ではあるものの、遠くを見る目線には慈しむような丸さを含んでいる。おセンチな親父を見ているときにはいつも、なんと声をかけたらいいかわからない。押し黙って烏龍茶を流し込むことで続きを促す。
「兄弟作ることがアイツの幸せなんやったらそれが一番ええ。俺に与えられん幸せを他の兄弟分が持っとるんやったら、そいつと一緒におった方がええねん。俺はアイツに、なーんもできひんかったからな」
 言葉だけ聞けば自嘲気味なのに、目の前の人はいっそ爽やかなほど屈託なく笑みを浮かべて頬杖をつく。自分の予想する感情と実際に受ける印象が乖離してきた。桐生の叔父貴に「読めない」と評される親父は、他の人よりも長めに供をしている自分を以てしても、やはり読めないと思う。
「…………」
「アイツの幸せのためにちいとばかり手助けしたろ思てるけど、俺にできるもんも限られとるしな。アイツはもっと良い思いせなあかんねん」
 「わかるか?」とダメ押ししてきた親父を、どういう顔で迎えればいいかわからない。もちろん返答も見つかっておらず、烏龍茶が減るばかりだ。そんな自分を気にもしていない親父はメニューを開いてデザート欄などを見ている。多分今日の締めはオレンジシャーベットか。
 正直に言うと、親父の言い分には納得がいっていない。親父と冴島の叔父貴の間にあったことは噂程度の情報しか知らないが、冴島の叔父貴にとってのこの人は、もっと大きな存在で、もっと自惚れてもいいほどに、替えのきかない兄弟であるはずだ。叔父貴とは短い付き合いの自分でもそう思うのだ、もっと長くお互いを知っている親父が、そのことを察せないとは思えない。
 子供じみているほどに傍若無人で威風堂々と振る舞う割には、親父にはあまり独占欲のようなものが感じられない。好きなものはとことん追いかけるほど執着するくせに、自分の手から離れることそのものには昏い感情を見せない。潔いと言ってしまえばそれまでだが、読めないちぐはぐさが、側近(と勝手に思っている)としての自分をやきもきさせる。もっと理解できれば、もっと的確にサポートできるだろうに。彼自身も意識していないような、得ることを放棄したような小さな幸福をその手に握らせることもできるかもしれないのに。

「お前、アイツにいらんこと言うなよ」

 いつの間にか正面を向いていた隻眼が、凪いだ水面のごとき怜悧な視線を投げつけてくる。まるでこちらの心情を読んでいるようなタイミングで、虚を突かれた心臓がぎゅっと縮まった。しかし、研ぎ澄まされた無表情がさっと鳴りを潜め、ばつが悪そうな苦笑が顔を覗かせる。

「これ以上大事にされたないねん」

 思わず「はあ」と声が漏れて、それきりこの話題は終わりになった様子だ。親父は二つのメニューの間で指を往復させながらお決まりの歌を口ずさんでいる。
 最後に告げた言葉とその表情の意味は測りかねている。瞳の奥に少しの怯えと後悔が揺らめいていたのも、読めないのに明け透けな態度も。まだまだ補佐として未熟であることを痛感したが、冴島の叔父貴に告げ口して殴られる役割は、やはり自分にしかできないことだろうと思うのだ。そのときに浮かぶ顔によって理解を深めることもまた、自分にとってはきっと必要だ。この人に不要であったとしても。

 最後にメニュー上で止まった指はティラミスを指していた。店員を呼びつけて「宇治金時氷ひとつ頼むわ」と注文する親父を見ながら、やっぱり理解なんてできないかもしれないな……と思った。

SSログ

2017/02/02
【長谷酸(現パロ)】

 自宅で食事をするときはもっぱら自炊だ。よくオッサン臭いのに意外だと言われるが、男一人暮らしにしては生活力がある方だと思う。少なくとも10秒メシ中毒の隣人よりは。
 今日みたいに仕事でどうしても遅くなった日は、コンビニ弁当に頼らざるを得ない日もあるが、それはそれとして、店で買う食事が嫌いというわけではない。
 むしろ買い食いは大好きだ。寄り道ついでにする気楽さも、夜中にふと思い立って出かける特別感も、店に着くまでの何を買おうか考える時間も、日々の些細な幸福を感じられる。

「――京輔か」

 特に、偶然にも意中の相手と鉢合わせた時なんかは。

2017/02/03
【日レバ】

 俺にとって居残りはそんなに珍しいことじゃない。宿題はしっかり終わらせるしテストの点数は悪くないし当番をサボることもないが、女子に当番を押し付けられたり、あるいは今みたいに誰かの仕事や宿題を手伝ったりするためだ。
 本日日曜日はNPスクールが昼から開講となり、夕方には授業を終え、教室も静まり返っている。目に痛いほどの見事な夕焼けが窓から入り込んで、西日をマトモに喰らっている状況だ。正直暑い。しかし任務を放棄することもできず、俺はこうして年上の後輩の面倒を見ている。
 この塾に入学したてで右も左も分からないので宿題を教えてほしいと、いつものへらへらした顔で直談判してきた。なんで俺が、と断ろうとしたら偶然に側を通った教員についでのように任された。嫌いなわけではないが、こいつと居るのは調子が狂う。何を考えてるのかわからないようでいて、何も考えていないような。なんとなく近寄りたくはない。

「――日高先輩?」

 常にへらへらして掴みどころがなくて、腹の底が見えないのも原因だろう。本音らしき顔を見せたことがないように思う。才牙とはまた違った風にクラスからも浮いている。最近入ったばかりだから仕方ないだろうが。

「先輩」

 浮いているといえば、コイツの容姿も現実離れしたところがある。体格も顔もずば抜けて優れているというわけではないんだが、その髪色は目を引くほど明るい。茶髪なんだろうがかなり赤みがかっていて、今日のような夕暮れ時は特に太陽を浴びてきらきらとしている。地毛なのか染めているのかはわからない。痛んでいるようにも見えないから地毛だろうか。

「日高くーん」

 日が傾いて更に真っ赤で、小さい頃に見つけたヘビイチゴのような色をしていた。そういえば以前にもこうしてきらきらするこいつの髪に目を奪われたことがある気がする。確かあれは、夜中に行ったアンプラグド狩りの、ネオンの下にいて――

「迅八郎さん!」

 こんな風に、俺の意識を奪っていたときのことだった。

2017/02/04
【長谷酸(現パロ)】

「なんだこれ」

 目の前のマグカップには、淡い色合いの液体が注がれていた。丁度ミルクティーのような色をしているが、それにしてはわずかに濁っていて、液体のフチには油分のようなものも見て取れる。なんらかのスープのように思ったが、それにしては匂いが少し甘い。

「……ホワイトチョコレートの紅茶だ」

 キャンパスに向き合って手を動かし続ける家主からそう告げられて、少し驚いた。突拍子もないことをする奴とはいえ、今までにないタイプの奇行だ。自分で飲む分だから好きにすれば良いとは思うが。

「なんで」
「意味はない……そこにあったから入れた」

 まあ確かにチョコレート入りの紅茶は美味しそうではあるが、あまり口を付けられないまま冷え切っている様子からして、思ったような味にはならなかったんだろう。なんとも哀れな紅茶だ。哀れみついでに一口飲んでみると、匂いは甘いものの味はそうでもなく、なんとなく混乱するような仕上がりだった。確かにあまり美味しくはないな。

「それにしても、お前はあんまり食べ物で遊ぶタイプじゃないだろ」
「……実験だ」
「実験?」

 視線だけをこちらに向けて、ほんの少し口角を上げるのがわかった。この男の薄い表情の中で、俺のお気に入りの一つだ。この表情の後にはいつも、

「――10日後のための、な」

――やられた。

いつも心を掴んで離さない。

【末真+藤花(+朝子)】

 規則的な美しい罫線が並んだノートの上には、文字とも記号ともつかない意味不明な線がのたうち回っていて、ページの隅にはやる気のない小さな落書きが鎮座している。机の上に開かれた本が単語帳などと一緒に散乱していて、そんな有様にした本人はというと、

「飽きた……」

飽きていた。
 すでに上半身の力は抜けて机に突っ伏しているし、シャープペンシルを持っているはずの手は投げ出されている。見えているわけじゃないがなんとなく魂すら抜けている気がする。私は持っていた本を閉じて、すっかりだらけた親友に体を向けた。

「起きて藤花、手を止めてからもう1時間経ってるわよ」

 私たちは今日、1週間後に迫る期末テストに向けて勉強をするべく、この図書館に来ている。初めはやる気を出して必死に問題集と向き合っていた藤花も、今やすっかりこの通りだ。私は一通り復習を終えたので、一休みとして適当に取った本をぱらぱら捲っている最中だった。

「だってえ……末真だって本読んでるじゃない」
「藤花は一問解いては休んで、一問解いては休んでの繰り返しでしょ。まだ5問しか解けてないし」
「うううう……」

私に痛いところを突かれたのか、親友は泣きそうな顔をしてこちらを見上げてくる。ここで甘やかしてはいけないとわかっているので、わざとじっとりした目で視線を返してあげた。通用しないとわかるとバツが悪くなったように、藤花は視線を逸らして、私がさっきまで読んでいた本に手を伸ばした。

「何読んでるの」

そう言って表紙を見た彼女は、うげ、とでも言いたげに顔を歪める。『すぐわかる高校数学』のタイトルは、今の彼女にとって最も見たくない文字だろう。

「なんでこんなの読んでるのよ~」
「適当に取ったらこれだったのよ」

だからって……とブツクサ呟きながら藤花が表紙をめくると、本の中からはらりと一枚の紙が落ちてきた。

「あら、気付かなかったわ」

どうやらそれは貸出記録のレシートのようだった。この図書館では、貸出のときに登録者カードのバーコードを読み取って、返却日等の書かれたレシートを発行する。なくさないように本に挟んだまま返してしまう人が結構いるので、こういうことはあまり珍しくはない。

「浅倉……朝子?うちの学校にいたかしら」

藤花はレシートを拾ってまじまじと見つめている。口に出された名前にはまったく聞き覚えがなかったので、おそらく同じ学校ではないと思うのだが――

「きっと別の学校の子よね。この近くにもまあまあ高校はあるし」
「そうだと思うけど、趣味が悪いわよ。あんまり人のレシート見るのは……」

藤花の手からレシートを奪ってくしゃくしゃと丸めた。彼女からはあー、と少しだけ不服そうな声が漏れていたが、さほど興味はなかったのか渋々とノートに向き直っていた。
 私は満足そうに少し笑って、また改めて本を開く。と、そこには同じようなレシートが挟まっていた。貸出者名は『浅倉朝子』。奥付と裏表紙の間にもレシートが。貸出者名『浅倉朝子』。

「……」

背表紙を摘むようにして上下に振ると、ぱらぱらと4,5枚のレシートが落ちてくる。貸出者名は全て同じで、貸出日はちょうど貸出上限期間の2週間ごと。

「ぷっ……ふふ」
「何笑ってんのよ末真」

見たことも会ったこともないけれど、ちょっと間の抜けた頑張り屋さんがどうにも愉快に思えてしまって。

2017/02/07
【伊佐+千条(+正綺)】

ごうん、ごうん、ごうん……。

 小ぢんまりとした静かな建物の中には、乾燥機の回る規則的な音だけが響いている。時刻は午前2時。当然、俺たち以外に人気はないし、建物の周辺も閑散としていた。

「伊佐、テレビは点けないのかい」

俺の隣に腰掛けているひょろっと背の高い、ぼんやりとした顔つきの男が、これまた抑揚の感じられない声で問いかけてきた。

「この時間帯じゃあ、目ぼしい番組も無いからな」

それに警察の独身寮時代から、コインランドリーの待ち時間は何もしない習慣になっている。こだわりという程ではないんだが、何もせずぼーっと座っている時間がなんとなく落ち着く。

「そうかい。……じゃあ僕が話し相手になろうか」
「そのために着いてきたんじゃないだろう。別に退屈してるわけでもないから気にするな」

なんやかんやとお節介を焼いてくるこの男――千条が、いつもランドリーに着いてきているわけではない。最近はペイパーカットの事件に付きっきりだったせいで洗濯物が溜まりに溜まり、大量の衣類を運ぶために二人で来ている。千条は自分だけで行くよと言うのだが、同居人を家政婦のように扱うのは気が引けた。

ごうん、ごうん……。
乾燥機の残り時間はあと12分。

からり。

 ランドリーの少し古びた入口の戸が開く音だ。俺たち以外の客人が来るのはおかしいことじゃないが、僅かに目を見開いてしまった。訪れた人物に見覚えがあったためだ。

(あの娘は――)

 警察の独身寮時代にも、近くのランドリーに通うことはあった。そのランドリーにも来ていたのだ。彼女も俺と同じく人気のない時間帯に訪れ、やはり俺と同じく何もせずぼーっとしていた。ただ彼女の場合は、じっとしている方が落ち着くというよりも、暇つぶしをすることに興味がないといった風情だった。大体いつも生気の無い顔をしていて、特に趣味もないんだろうなどと失礼なことを考えていた。俺が言えたことではないが。
 まさか独身寮から引っ越した先のランドリーでも会えるとは思っておらず、とんだ偶然に唖然としてしまっている。と、彼女と目が合った。彼女もこちらを覚えていたようで、同じように僅かに驚いたような顔をした後、

ぺこり。

小さな会釈をして通り過ぎた。条件反射的に会釈は返せたが、正直更に驚いていた。以前の彼女は、暇つぶしにも、人付き合いにも極端に興味がないようで、いつもやや下を向きながら歩いていたためだ。

「――綺!」

間を置かずに、今度は彼女と同じ年頃の少年が、小走り気味に入ってきた。少年は彼女の隣に立って話しかけていて、予想通り彼女の連れらしい。

私だけで良かったのに。でも深夜だから心配だったんだ。平気よ。そんなことない。乾かすのも靴だけだし。いいから。云々――

(なるほど――)

 彼女に対する違和感がすべて解消された。要するに、人を好きになったんだ。恋人ができて、彼氏は社交的そうだから人脈も広がって、友達ができて、彼氏のために趣味にあたるようなことも始めてみて、とかそんな具合だろう。なるほど、恋は人を変えるということだ。悟った気分で小さく頷く。千条が不思議そうに見つめてくる。

「知り合いかい?」
「いや――」

知り合いではない。知り合いではないが、なんとなくお互い同じ境遇に居て、今も同じような変化に己を変えられつつある。相方ができて、一人でいるよりも二人でいる方がしっくりくるようになった。

ごうん、ごうん……。

乾燥機の待ち時間も、隣に温度を感じられる。

「伊佐?」
「まだ乾きそうにないかと思ってな」

もう少し待っていたいから、百円入れて九分追加だ。

2017/02/10
【詩歌(+そら)】

 私には、美しいお友達がいた。

 お名前はそらさん。彼女の美しく透き通った瞳にぴったりの名前だと思った。
 彼女は私と同じ年頃の少女であっても、いつも冷静で、大人びていて、どこか遠くを見ている人だった。ごくたまにハッとするほど冷たい顔をしているけれど、私に向ける声は優しく、限りなく透明だった。例えるなら真冬の夜のような、シンとした音を感じる声だった。
 彼女と冬を共に過ごした。一緒に下校するだけだったけれど。浅く積もった雪に注意深く歩く私と対照的に、彼女はずっと空を見上げていた。真冬の日は短く、すでに辺りは薄暗くなっていたので、夜空の観察には最適だった。彼女につられて空を見れば、星明かりが夜闇に小さく穴を開けていて、思わず口元が綻んだ。そして夢中になって、足元が疎かになったところで体は傾いて、支えようとしてくれた彼女を巻き込んで一緒に転んだ。慌てて謝る私に、雪を頭から被った彼女はくすくすと笑った。
――雪のような笑顔だと思った。濁りを混ぜて尚、真っ白に輝いて、少しずつ降り積もっては、私たちも同じように覆ってくれる。

 雪のような彼女は私を包んで、何も無かったように溶けていなくなる。

(どうして、行ってしまったのかしら)

 彼女はどこかへ行ってしまった。おそらく私たちの及びも付かない場所に。彼女とのお別れの前に、私は彼女を見た。彼女も私を見ていた。それだけで何も遺してはくれない。突き放すような元通りは、穴を開けられた夜空に光が射し込まないような理不尽さだった。一方的に、終わってしまったのよ、なんて言われる気分だ。

(雪のような声も、髪も、忘れてしまうんだわ)

 雪が溶けて、春も去ってしまっては、何を詩えばいいのかわからない。

2017/03/04
【クズっち+舞惟】

 女子高生にとって、口紅は化粧入門というかなんというか、とにかく初めて買うコスメティックに向いている。と思う。

 ママはまだ早いと言いつつ、目立つ場所では軽く化粧をして行きなさいと言ったり今イチ定まらないので、あまり自主的にしようとは思わない。化粧道具もママが買ってきた最低限のものしか持っていないし。
 しかし今の私はといえば、少し畏まって背伸びをするようなデパート地下の化粧品売場にいる。正直に言って女子高生のお小遣いには渋い買い物になることは分かり切っているのに、果敢にも制服で挑んでいるわけだ。先程から薄く汗をかいているが気付かないふりをしている。

「ねえ紅葉、聞いてる?」
「は、はいっ?」

 こちらを覗き込んでくる親友と目が合ったことで、明後日を見ていた私の意識は引き戻された。親友――舞惟は、両手に口紅を一本ずつ持って、怪訝そうな顔をしている。私をデパ地下の緊張エリアに連れてきた張本人だ。私が正直に「き、聞いてませんでした」と答えると、呆れたような溜息を小さく吐かれた。だって緊張するんだもの、しょうがないじゃない。

「こっちとこっちの色、どっちが好きかって聞いたの」

 そういって眼前に差し出してきたのは、どちらもピンクを基調とした控えめな色味だ。向かって右の方が少し鮮やかで、粒の小さなラメも入っているようだった。
 正直、舞惟の印象とは違うので意外だった。舞惟はいつも凛とした表情で、性格もそれに負けず劣らず。小柄なのに堂々としているから、むしろ大人びて見えるくらいだ。だからきっと、鮮やかな赤色なんて似合うだろうと思っていたのに、手に持っているのは可愛らしいピンク。しかし、中学生にも見える童顔の持ち主でもあるので、甘い色味もとてもよく似合うと思う。

「うーん……こっち、かな?」

 差し出されていた2本のうち、より鮮やかな方を指差した。舞惟の華やかな顔立ちを引き立てるのにぴったりだと思ったからだ。舞惟は満足そうに頷いて、私が選んだ方をいそいそとレジへと持っていった。
 そんなに口紅が欲しかったのかな、私も買えば良かったかしら、などと考えながら、レジから少し離れた場所で待っている。たしか他にお客さんはいなかったはずなのに、舞惟の会計はやけに遅い。何かあったのか、と心配し始めたちょうどその頃、ようやく舞惟が紙袋を持って小走りに帰ってきた。紙袋は特別可愛く、リボンなんか掛けられていて、まるでプレゼントの包みのようだった。さすが高いお店は違うんだなあ、と吞気に考えて、「おまたせ」と言った舞惟に「全然」と返す。

「はい」

 舞惟が綺麗な包みを私へ差し出してきた。反射的に手を出して受け取ったが、これはどういうアレだろう。荷物持ちかな?でも舞惟はあんまりそういうことをしないはずだけど。きょとんとしながら首をかしげて、舞惟に目で訴えてみる。

「プレゼントよ」

 なるほど合点がいった。これは高い店だから包みが可愛らしいのでなく、ギフト用だから綺麗なんだ。なるほどーなるほどなるほど納得。

「……って、え?なんで!?」

 突然の出来事に面食らって、少し大きな声を出してしまったので、はっと口を押さえて辺りを見回す。大して目立ってはいなかったようだ。

「なんでと言われても……なんとなく?」

 そして大きな声を出させた犯人はというと、やはり怪訝な顔をして小首を傾げている。ああもう、そんなに可愛い顔をされてもどうすれば。
 ここはデパ地下で、緊張エリアで、口紅1本だとしても、高校生が友達になんとなくで買えるものじゃないでしょ。どういうことなのよ。

「紅葉の髪の色に合わせてみたからきっと似合うと思うわ。そうだ、そこの化粧室で付けてみてよ」
 
 私の困惑を知ってか知らずか、舞惟は若干はしゃいだような様子で笑顔を向けてくる。なんでよ。これ4千円でしょ。誕生日でもないのにこんなプレゼント貰えないわよ。なんなの。第一、そもそも、大体……

「ずるいわよ!私も舞惟の口紅選びたい!」

 今度はそこら一帯に響いたため、私は真っ赤な顔で舞惟に似合う口紅を探す羽目になった。

ツイッターSS(都合によりすべて長谷酸(現パロ含))

『長谷酸さんに与えられたお題は 「金」「奴隷市」「ヤンデレ」 です。頑張って混ぜてください。 #3つのお題で創作 https://shindanmaker.com/716352』
市場に並んでいた彼は一際目立たない存在だったが、一目で惚れた故もう何ヶ月も通いつめている。金はないので俺は買えない。彼も売れない。いい加減に彼を人目に触れさせるのが嫌になって、金貨の代わりにナイフを握ってきた。彼の赤い瞳は俺を見て嬉しそうに細まったので、多分これで正解なんだろう。

『【長谷酸】 「ああっもう!花束でも用意すればよかった!」 #この台詞から妄想するなら https://shindanmaker.com/681121』
急な誘いでもアイツは嫌な顔ひとつせず、かと言って嬉しそうな素振りも見せず、読めない表情に平らな声音を乗せて同意する。 ――はずだった。 『――楽しみにしている』 電話越しの予想外は俺の頭を容易に乱し、この嬉しさをどう発散したものやら。 「ああもう!花束でも買ってくりゃよかった!」

『貴方は長谷酸で『どんな言葉よりも』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/375517』
元々会話が多いというわけでもないが、いよいよ一言も喋らなくなった。というのも、相方の死期が近く、声帯がダメになってしまったためである。本人は特に動じることはなく、俺もすんなり受け入れたが、声が聞けないのはちと寂しい。しかしまあ、こちらを見透かすあの視線は、ああ、どんな言葉よりも、

『【長谷酸】 「今まで、俺のなにを見てきたんだ?」 #この台詞から妄想するなら2 https://shindanmaker.com/705660』
いよいよ絶望的だ。僕の手元には一切合切何も残らず、今までの行動がすべて無駄という結果をもたらした。運命は途切れ、希望は困難の彼方。だと言うのに、この男はいつまでも隣に立っている。何故と問えば、男は呆れたように笑った。 「今まで、俺のなにを見てきたんだ?」 俺はずっと見てきたのに。

『長谷酸へのお題は『届くことのないメール』です。 https://shindanmaker.com/392860』
今時珍しくなってきた折りたたみ携帯の液晶では、普段の俺を想像すると背筋が寒くなるような誘い文句が切々と綴られては、全文消去が繰り返されている。やっと”らしい”形に収まって来たかと思えば、今度は送信する勇気がない。畜生。ヘタレ。洒落臭いから今から訪ねて直接言ってしまおう。

『長谷酸の切ないシチュエーション 『今にも泣き出しそうに 君は 「もう諦めたんだ」 と言いました。』  https://shindanmaker.com/123977』
壊れかけの身体を引きずってまで希望を探す姿は美しかった。時に泥のように淀みながらも爛々と光る赤い目を抱きながら消えたいと思った。
今にも泣き出しそうに君は「もう諦めたんだ」と言った。
美しさは変容して、瞳は滲んでしまっているが、君は変わらず愛しかった。寂しさだけが初めてだった。

『長谷部が恋だと気付いたのは溢れた思いが言葉にならなかったとき です。 https://shindanmaker.com/558753』
僕との会話中に突然妙な表情をしたかと思えば、しきりに腕を上下させて威嚇のような真似をし、更には鯉のように口を開閉させている。全て無言で、意味がわからない、どうしてとでも言いたげな表情を浮かべながら。やがてスッと真顔になると、「なるほど」と腑に落ちた様子で立ち去った。なんだあれは。

『貴方は長谷酸で『目を奪われる』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/587150』
特別な能力が無くたって、人はそれぞれ見える世界が違うのではないか。己の世界の鮮烈な何かに目を奪われてしまうのは仕方がないことだ。 お前の目を奪ってしまえればと思うが、きっとあの赤色はお前のほとんどを奪ってしまっているだろうから、ならばせめて目だけでも、俺の傍に遺してはくれないか。

『長谷酸さんは『「ごめんなさい」』をお題に、140字でSSを書いてください。 https://shindanmaker.com/320966』
成人男性となった今、「ごめんなさい」と謝罪する機会はほぼゼロだ。大体はすまない、申し訳ないに言葉が置き換わる。咄嗟にでも出てくる文言ではないだろうと思っていたが…… 先程成り行きでハリウッドを叱る形になり、つい「ごめんなさいは?」と言ってしまった。マジか。「ごめんなさい」素直か。

『長谷酸にとって「手をつなぐ」ことは『好きだと気付いてくれないか』という意味です。 https://shindanmaker.com/490429』
つい。魔が差して。思いがけず。としか形容できないほど、突然にその手を握り締めてしまった。美しく細やかに動く手を、文字通り手中に収めてしまった。相手は少し驚いたものの、何も言わずされるがままだ。黙ったまま離すにも離せない、離し難い。ああいっそ、俺の気持ちに気づいてくれたらいいのに。

『長谷酸のタイトルは『君を探して』 煽り文は『俺だけを愛してはくれなかったな』です #CP本タイトルと煽り https://shindanmaker.com/717995』
嘗て神と成ったお前に、もう一度会いたかった。長い長い果てしない一生を賭けてでも、もう一度、”酸素”などではないお前を探してみせると決意した。そうすればもしかしたら、なんて幻想だけで歩いていられた。夢中だった。ただただ世界から取り返そうと。 「結局、俺だけを愛してはくれなかったな」

『貴方は長谷酸で『優先順位』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/375517』
アレは世界のものだ。運命から弾かれた俺は、何物よりも優先されるべきではない。俺の最優先はいつもあいつだというのに、最後の最期まで一方通行の片思いだ。 それでいい。そんな関係が心地良い。すべて俺が選択した。だから、 頼むから、自分よりは優先するなんて馬鹿なことしないでくれよ。

『【長谷酸】 「何者なんだ・・・?」 #この台詞から妄想するなら https://shindanmaker.com/681121』
無表情で素っ気なくて、陰気で影が薄くて空気みたいな上に何考えてるかわからない。と思ったらよくよく見れば普通に感情は表に出すし、猫が好きだし、茶目っ気があるし意外にお節介というかなんというか。見ていて飽きないなと思うんだ。 「一体何者なんだ……?」 ここまで俺を惚れさせる男は。

『貴方は長谷酸で『逃がさないでね、僕のこと』をお題にして140文字SSを書いてください。 https://shindanmaker.com/587150』
それは重いだろうと言った。背負いきれるかわからないと言った。すぐにでも走ってどこかへ行ってしまいたくなるだろう、と思った。だから俺を選んだんだと、言われた。覚悟の乗った声色だ。 「……逃がすなよ、僕のことを」 俺を誰だと思っているんだ。地獄の底までだって追いかけてやる。

『長谷酸の愛の言葉:雨が止んだ花冷えの夜、静かに寄り添って「たぶん、君が思っているよりずっと好きだ」 https://shindanmaker.com/435977』
若草から雫がぽとりと落ちる音がして、反射的に寒い、と思った。現実に立ち返った明日の自分は、馬鹿馬鹿しいなんて嘲笑うだろうが、今宵は浸っていたい気分だ。何せ隣の君とこうして、体温を分け合う真似事なんてしてるんだから。 「……多分、お前が思っているよりずっと好きだ」

『長谷酸が恋だと気付いたのは溢れた思いが言葉にならなかったとき です。 https://shindanmaker.com/558753』
くるしい。喉が詰まってくるしい。肺が引き絞られるようにくるしい。無いはずの器官すべてがはちきれそうなほど、くるしい。叫んでしまえばいいのに、大切な欠片が壊れてしまいそうで。くるしい。 「……泣きたいのか?」 そうなんだ。それなのに。涙代わりの言葉も出てきてくれないんだ。

『酸素は長谷部に苦しげに笑って言いました。 『君のおかげでここまで生きれた。ありがとう』 #きみとお別れったー https://shindanmaker.com/459976』
最期だろうとなんだろうと、俺たちの間はどうしたって変わらないさ。隣にいるのが当然で、空気みたいに混ざり合って、木漏れ日のような緩やかさで、これからだって想っていける。 「お前のおかげでここまで生きられた。……ありがとう」 そんな顔で、そんな言葉で、そんな思い聞きたくなかった。

『酸素は死ぬ前に言った。「春はまだか」 酸素の表情は、晴れやかだった。 #死ぬ前に言う言葉と表情 https://shindanmaker.com/522035』
久々の再開は寂しげな桜の木の下だった。以前よりよっぽど薄まった影はいよいよ陽射しに溶けてしまいそうで、潮時なんだな、とぼんやり思った。 「春はまだか」 「お前がいなくなってからな」 晴れやかに笑って、いつの間にか消えていた。眼前の大樹にはせっかちな蕾が一輪開きかけている。

『私は4favされたら、長谷酸の「俺を信じてよ」で始まる小説を書きます(o・ω・o) https://shindanmaker.com/321047』
「俺を信じてくれ」 必死に僕へ語りかける眼差しに偽りはないのだろう。類を見ないほど真剣な声色、僕の手を固く握る掌には迷いがない。嘘をつくのは得意な男だが、こうして誠意を伝えることもまた、得手ではある。しかし、 「信じているが……断る」 メイド服を握りしめて崩れ落ちる様はどうにも。

『長谷酸の今日のパラレルは 神主×大学生 なんてどうでしょうか https://shindanmaker.com/563925』
じっと窺い見る。寂れた神社に訪れる割には、お参りもせず、休憩所のように居座るでもなく、壁に少しだけ凭れてただ虚空を眺めているのだ。待ってるようでもあって、それが一体なんなのか気になってしまう。観察したらいつも通り声をかける。 「よう青年、また来たか」 明日も来るという確信でもって。

『長谷酸さんは『膝枕』をお題に、140字でSSを書いてください。 https://shindanmaker.com/320966』
「薄い……」 あと硬い。 「文句を言うな」 若干棘のある声色が珍しくて、枕の持ち主を仰ぎ見る。呆れているようだった。俺が言い出したんだもんな、そりゃそうだ。 「ん」 おもむろに唇が降ってくる。宥めるように優しくて、多分あやされているんだと思う。 良いサービスだな。星5つ。

【万騎くん】

 矢嶋万騎――またの名をホーニー・トードは、統和機構のエース級戦闘用合成人間である。

 そしてただの高校生でもある。現在は学校をズル休み中である。

 いや、ズル休みというのも正確ではないだろう。彼はベテランの戦士、情け容赦なく敵を殺せる非情さを持ち合わせているとは言っても、立て続けにしんどい任務が重なれば心身ともにしんどくなる。道徳や価値観は幼少期からごく普通の家庭で形成されてきたために、そういうこともあるのだ。要するにメンタルが弱ってしまっているので、こうして学校にも行かずベッドの上で丸くなっている。両親もたまにこういうことがあるのはわかっているので、風邪ということにして学校に連絡を入れてくれた。理解があるのはありがたいことだ。
 3日前の任務対象は年端もいかない子供だった。まだ足し算ができるかできないかくらいだったろうか。1週間前は自分と同じくらいの歳の少年だった。親友と思しき少年が庇いに来たが、任務を優先した。1ヵ月前は壮年の女性だった。最後に息子に合わせてほしいと言われた。2ヶ月前は……。
 考えるのはやめようと頭を振って、反対方向に寝返りを打った。鬱々としたことを考えてもしょうがない。回復しなければ仮病を使ってまで休んだ意味がないとわかっていても、そもそも昼まで寝ていたので、日が傾いてきた今頃に寝られるはずもない。
 ずっと布団にくるまっているだけの状況も飽きてきたので、チカチカとランプの点灯する携帯を開いた。ランプはメール着信の合図だったようで、送信元は親友の二人だ。思わず顔をほころばせて一通ずつ開けば、仮病じゃねーのかとか、学校でこんな馬鹿やってたとか、お前がいないと寂しい(馬鹿にしている)とか、くだらないお見舞いメールだった。読んでいるとさっきまで何を考えていたのか忘れてしまって、けどメールの返信をする気も起きないまま、携帯を閉じてまた寝入ろうとした――途端に、けたたましい着信音が薄暗い部屋に響いた。慌ててディスプレイを確認すれば、親友のうちの一人から。そういえば丁度学校が終わる頃合だろうか。風邪の振りをしようかしまいか……と考えながら通話を受ける。

「おー、どうしたんだよ。……いや仮病じゃないって。ほんとに風邪…………え、カラオケ?百太の奢り……全然行ける。今治ったから。……だから全然仮病じゃないって。すぐ行くから駅前集合で。…………母さん!遊びに行ってくる!」

【長谷酸】

 冬が嫌いだ。

 正確に言えば雪だろうか。まだ怪我をすれば血が流れていた頃なんかは、よく寒い寒いとのたまっていて、てっきり寒いのが嫌いなんだと思っていたが、こうして奇妙な肉体になってからようやくそうではないとわかった。自分の気持ちの出処なんて意外に知らないということも。
 雪だるまを作った経験くらいは誰にだってあるだろう。本腰を入れて作られたデカい雪だるまも、歩きながら適当に作られた雪だるまも、見知らぬ他人が作って放置した野良雪だるまも、見かけてしまえばなんとなく愛着が沸いてしまう。二つ並んだ小さな雪だるまの兄弟に思わず笑みをこぼしたことや、不器用に丸められた完成度の低い雪うさぎにも物語がある。
 そして当然ながら、愛しかった雪細工は大抵数日経てば溶けてなくなってしまう。誰かが作った小さな兄弟は、その場に目玉だけを残して綺麗に姿を消してしまった。いっそなんの痕跡も残してくれなければ、気のせいだったと思うこともできただろうに。
 雪は嫌いだ。寂しくなるから。

 563回目の春が来た。雪は溶け、虫たちは眠りから覚め、新しい芽吹きが始まっている。今年の春に、冬の名を持つ男はいない。春になったからいなくなってしまったんだろうなあ、と残された奴の飼い猫を撫でながら思ったりした。

(春なんてこなければよかったのに)

 まったく人の気持ちは摩訶不思議で難しい。結局俺は、冬じゃなくて雪でもなくて、春が嫌いだったんだ。

【才牙きょうだい】

「ふたつあるアイスってちょっと不親切だと思わないかい?」
 僕の脈絡のない会話に(いつものことだしそろそろ慣れてほしいけど)、それはそれは鬱陶しそうな目をする妹。自分よりもよっぽど低い位置からじろりと睨めつけられているのに、不思議と圧がすごいなと思う。
「だって屋外で食べるときなんかは、二人いること前提だ。味が好きだから買ってる人も多いだろうに、そんな妙な制約を負わされてたまったもんじゃないよね」
「くどい。二つ食べればいいでしょう」
「しかし、僕は今そらと二人でいるわけだからさ。いいんじゃないかな、一つずつで」
 不機嫌な顔がますます恐ろしげな形相になるけど、顔の怖さに反比例してとげとげした空気がぽろぽろ剥がれている気がする。今日は機嫌がいい方なのかもしれない。
 僕の手からアイスの片割れを奪うと、ふすん、とため息をつきながら口に含んだ。内側から押し出された頬がもちもちしている。
「やっぱり僕の方が兄だよね」
「黙れ」

ガラクタとからす

俺は、探している。

どうしようもない空虚を、退屈を、すべて忘れさせてくれるような相手を。
この最強と互角に戦える強さを。

――あるいは、それ以上を。

あと今はカラスも探している。

 事の発端は今日の正午。人気のない廃ビルでどうでもいい任務をこなした後、いつものように通信端末を使って報告した。そして更にいつもの如くなんやかんやとイラついて通信を切り、憤りもそのままに端末を窓辺に叩きつけるように投げ置いた。腹の虫が収まらないからビルの屋上で街を見下ろしていたときに、一羽のカラスが飛び立っていった。俺の端末をくわえて。窓は開いていたから、光り物を見つけて持っていったというところだろう。端末が持って行かれたと気づいた時には、奴はもう攻撃射程範囲の外に出ていた。この俺としたことが。
 端末などに大して執着はない。任務中に壊して新しいのを支給されることもあるし、失くしたから新しいものを寄越せと言えば直ちに届くだろう。機構の上に声を届けるために別の構成員を捕まえるまでは不便するというだけで。どうせまたオキシジェン辺りがどうでもいい任務を持ってくるから、その時にでも言えばいい。わざわざ探す理由はない。

――が。

「売られた喧嘩は、買わねばなるまい」

相手が鳥類だろうと人類だろうと、大した違いはない。

 能力で高い場所をあちこち移動しながら、目標を探す。かなりの高度を、目に止まりにくい速さで移動しているため、地上を歩く通行人には気づかれないだろう。まあ気づかれたとしてもどうだっていい。
 件のカラスは、体の大きさ、顔の特徴、鳴き声、都心部に生息していることを踏まえると、まず間違いなくハシブトガラスだ。今は5月の中旬。カラスはちょうど孵化した雛を巣で育てている頃合だろう。巣を作る場所は、都心部だと主に街路樹、電柱、高架水槽などの高い場所になるが、この近くに高架水槽はない。移動しながら観察している限りでは、この辺りの電柱にも巣はできていなかった。残るは街路樹のみになるが、最近の街路樹はカラスの営巣対策として、枝がかなりすっきりと剪定されており、見通しがよくなっている。あんな隠れようがない場所に巣を作ることはない。

(ということは――)

 消去法で最後に残った選択肢として、この寂れた神社に来た。都心に近い割には人が訪れることは少ないらしく、休日にも鬱蒼と静まり返っている。土地だけは広いおかげで木々はそのまま巨大に成長していき、外から見ると局地的な森のようになっていた。つまり、カラスが巣を作るには絶好のポイントになる。
 木から木へと移りながら見回すと、程なくして目的の巣を発見した。陽光を反射してキラリと光る細長い端末が、巣の中に無造作に置かれている。そして案の定、件のカラスとその雛も。

「おい貴様」

ご丁寧に犯人(犯鳥?)へ声をかけると、俺の存在に気づいた親カラスはカァ、カァと喚いてきた。構わず近寄ると、今度はバサバサと羽を大きく広げている。威嚇しているのだ。この俺を相手に。

「ほう、この俺に楯突くか」

俺の笑みの意味がわかってるんだかわかってないんだか、カラスは更に激しく羽を振り回している。己よりも遥かに大きく、優秀な生物を相手に威嚇している。動物であろうと殺気も伝わっているだろう。しかしコイツは威嚇をやめない。自分の背後で鳴く雛を守るために。

(守る、か――)

目的のない力は強さではないと聞いた気がする。ならば目的さえあれば強いのか。目的とはなんだ。俺にはないが、コイツにはあるものだ。守る対象。馬鹿馬鹿しい。

「くだらん……だが、」

俺の殺気が引っ込んだのを察したのか、カラスは威嚇をやめて大人しくなる。首をかしげているのは、果たして人間と同じ意味なのか。

「その意気や良し。そのガラクタはいらん、取っておけ」

木から降りる俺の背中に、雛鳥のピィと一際甲高い声が投げられた。

 後日、クレープ片手に街を歩く俺の頭上に、小さな物体が飛来してきた。難なく受け止めると、掌には例の通信端末が収まっている。
 街路樹の枝にはカラス。俺がよう、と言うと、カラスはカァ、と鳴いた。頭の良いことだ。

拝啓 橙色の底から

 繰り返される規則的な揺れで目が覚めた。薄ぼんやりともやのかかった視界は黄色いような赤いような、奇妙な箱のように見えるので、夜が近いのだなと、覚醒しきってない頭で考えた。何度か瞬きをすれば向かいの座席と、つり革と、興味のない広告がはっきりと見えて、ここが電車の中であることがわかる。自分たちの貸切電車のようで、他に乗客は見当たらない。肩にかかる心地よい重みは不安定だ。まだ眠っている親友が快適にまどろんでいられるよう、ゆっくりと体勢を整える。整えて、すぐ近くにある顔を覗き込んだ。いつもくるくると目まぐるしい表情は鳴りを潜めて、今はただただ静かに目を閉じている。嬉しいとか、苦しいとかそういう感情もなくて、穏やかに眠っている顔に安堵した。窓から差し込む光を受けた髪は、人工的に色を抜かれていて、少々不自然な輝きを放っていたが、それも彼女らしいもので、好ましいとすら思っている。
 光の元を辿るように首を反対側へと向ければ、太陽が水平線に溶けかかっていた。窓を開けていないのでわからないが、外は潮の匂いでいっぱいだろう。窓からは何かの木の葉と、砂浜と、切り立った崖と、一面の海しか見えない。それからふと、どうしてこんなところにいるのか思い出そうとした。そもそもどこから来たんだっけ。ずっと長い間電車に乗っていた気がする。朝からずっと、乗り慣れない電車に乗って、乗り継いで、人が減っていくのを眺めながら、誰もいないような路線を終点まで。いくら記憶を掘り返しても理由がわからないので、自分の肩で健やかに眠る親友の頼みだろうと結論づけた。いつもそうだった。彼女は突拍子もないようなことを言うが、それに意味がなかったことなんてなくて、真っ直ぐに彼女を信じることができた。彼女の願いならばなんでも聞いてやるつもりだった。大切な優しい親友の願いだから。
 何も思い出せないまま少しの時が過ぎて、電車の中に終点を知らせる声が響いた。オレが未だ眠り続ける親友に短く声をかけると、彼女は開ききらない目をこすりながら、小さくあくびを零した。まだ少し足元の覚束無い彼女を気遣いながら電車を降りると、そこは小さい無人駅で、当然のように自分たち以外は誰もいない。改札にしてはお粗末な出口からは一面の海と砂浜が見て取れて、ぼんやりと覚醒しきらない親友も少しずつ気分を上げていった。どうやらここは彼女の望んだ場所で間違いないようだ。
 車がまったく通らない割に広く舗装されている道路を我が物顔で横断して、簡単に作りつけられた階段を降りる。設備や砂浜は汚れてこそいないが、手入れはなんだか中途半端で、そこかしこに雑草や少しのゴミや、流されてきた壊れた傘なんかも落ちている。今は時期じゃないから後回しにされているんだろう。
 親友は完全にいつもの明るさを取り戻して、もたつきながら靴を放り出すと、波と戯れながらはしゃいでいた。ひらひらと広がるスカートを履いているので、時折裾なんかを気にしながら、存分に水の冷たさを堪能している。砂浜でその様子を眺めているオレに手を振って、それから、少し深いところへ歩みだした。スカートの裾がつくギリギリまでの深さで、もう一度彼女はこちらを振り返った。

「凪!」

いつも通りの太陽と同じ色の声で名前を呼ばれて、自然とそちらへ足を踏み出すと、彼女は大きくかぶりを振った。不自然に輝く薄い色の髪がぱさぱさと舞っていたので、仕草の意味はどうでもよくなった。一歩を踏み出した姿勢のまま、動けない。
 立ち止まるオレを満足そうに眺めて、彼女はまた一段階深いところへ遠ざかる。スカートの裾は水面で広がってしまって、お気に入りだと言っていたのに勿体無いな、と思った。彼女が後ろを向いたので、オレはまた歩みをはじめる。今度はこちらを振り返らない。靴も脱がないまま波打ち際へたどり着く。波はすぐにオレの足をさらって、まとわりついて、重くした。更に歩を進めようとしたが、うまく歩けない。波は粘ついたように重かった。無理やり踏み出せば着地点の定まらない足はあっという間にバランスを崩して、その場に片膝をついてしまう。立ち上がりかけた姿勢で彼女を見やれば、ますます遠くへと離れてしまっていた。とっくに沖の方にいるはずなのに、沈んでいる様子はなく、オレのように足を取られた様子もない。ただひたすらに水平線へと歩いている。もう少ししたら、あの太陽と一緒に溶けるのだろうか。
 重く粘つく波は歩を進めるごとに密度を増しているように感じられるが、それを不自然には思わなかった。足を取られて転ぶことを無様だとも思わなかった。彼女の元へ行くのに邪魔だな、とだけ思った。彼女との距離は離れていくばかりなのに、オレは名前を呼ばなかった。呼んでもどうしようもないことを知っていた。
 一歩進んで、ガクンと沈む。また一歩進んで、沈む。もう鎖骨の辺りまで水に浸っていても、歩みを止められなかった。呼び止める声はいらない。呼吸のための鼻も必要ない。溺れるのは怖くない。彼女を見失わないための目だけが残っていればよかった。よかったのに、砂を蹴る足は無情にも何もない水中に放り出されて、波はオレの姿を飲み込んでしまう。

 最後にもう一度だけ名前を呼ぶ声が聞こえて、それきりだった。

 ◆

 よく響く誰かの笑い声で目が覚めた。一瞬で明瞭になる視界には見慣れた部屋が広がっていて、とっくに覚醒しきった頭が、ここは自宅のベッドの上で、笑い声は外を歩いている女学生か誰かの声だろうと結論づける。いつも通り、鳴る前に目覚めてしまうため特に意味のない携帯のアラームを切ってから、適当な服に着替える。朝食の匂いがするのは、更に早起きをした弟によるものだろうか。
 ずっと同じような夢を見ていた気がする。はっきりとは覚えていないが、旅をするような夢を。そして旅の先には終わりがあって、今朝、終わってしまったんだろう。
 窓から差し込む光は時刻を主張するように灼けている。もう二度と同じ色を見ることはできない。