あいのう

2024/8/24 上遠野作品Webオンリー『世界はきみのためにある2』にて発行
アンソロ『Quiet hour』より再掲
参さんの作品の三次創作です→ 身から出た錆

 猫なで声。
 猫をかぶる。
 猫も木から落ちる。……これは違う。

 それらはなんでもない慣用句であり、日常会話で流される程度の意味合いしかない。少し前までは。
 自分には動物を愛でる趣味はなく、猫という生き物への解像度も最低限あればよかった。全身に毛が生え、概ね似たような形状をしており、世界各地で愛玩動物として人気のある生き物。それが猫。
 しかし、ひょんなことから猫に関する知識を一夜漬けもかくやとばかりに短時間で詰め込み、そしてそのまま知識が定着してしまった。おそらくその辺の一般人や、実際に飼育している者の平均値よりも詳しくなってしまった。
 自分もなかなか健気なもので、知識を得た対象はその他大勢より特別な視点が交じる。事実と比較しての正誤確認、新しく得た知識と結びつけることによる納得、単に目に入りやすくなってる、云々。
 正直、うんざりではある。
 猫が世間的にどう思われていようと、自分の仕事にはなんの支障もない。正誤を判断する必要などまったく存在せず、故にそんなことを考えるリソースが無駄極まる。
 知る必要のないことを知ったところで、自分には選ぶ資格があると思い上がるだけだ。
(記憶も好きに消せれば便利なんだが……)
 記憶操作の能力を持つ構成員のデータをいくつか思い浮かべる。こんな私的なことに流用できるわけもない。第一本人了承の上で記憶を弄らせるほど信用のおける者などいない。
 こんな思考は無意味だ。
「みゃあ」
 淀んだ空気を転がして遊ぶような、あどけない鳴き声がひとつ。散漫な思考を持て余しながら動かしていた足をぴたりと止める。次の任務に向かう道中の、人気のない小ぢんまりした通りまで来ていたようだ。考えずとも勝手に足が向かうとは、なんとも便利な身体だ。
 鳴き声の主は特に探すまでもなく、左手側に位置する店の前でただ座っているだけだった。こちらに顔を向けている様からも、先程のひと鳴きは呼びかけの意を含んでいるのだろう。その瞳にも姿勢にも警戒心はない。首に嵌ったアクセサリーが、人馴れした性質の根拠を示している。
 見るからに成猫であり、身体はやや大きめといったところか。整った毛並みから、いい生活をしているだろうことも想像に難くない。そんなことはどうでもいいのだが――全身を覆う毛色に比べれば。
「……ロキ」
 否が応にも頭に残っているその名前を口にすれば、茶と黒で汚れたサビ柄の猫は、再び「にゃあ」と鳴いた。間違いなく返事をしている。噂だけはかねがね、悪戯とフライドチキンが好きで、予防接種が嫌いな、あの。
(捕まえた方がいいのか?)
 今は捕獲要請など上がっていない。それでも、もしかしたら……手のかかるこの猫を、一番乗りで捕獲して、そして、
(いや、違う、何を考えている)
 眉間により一層集まったシワを、何も知らない猫が黙って見つめている。こいつは猫のくせに敵意もなく人間の顔を見つめているな。本当に何も知らない猫だろうか?
 目を閉じ、ため息ともつかないひと呼吸を落として、猫の横を通り過ぎようと――した。
「……奇遇だな」
 任務の関係上、いかなる状況であっても他者の気配を感知することは怠らない。そのはずだが、目の前の彼を前にしては、鋭敏を自負している感覚も意味を為さなくなる。彼を認識してはじめて、店を出た合図であろうドアベルの音が鼓膜を揺らす。自分と猫以外存在しなかったはずの通りに、なんの前触れもなく現れたのだ。
 ちょうど猫が鎮座していた店に彼は入っていたらしい。この調子では店員も入退店に気づいていない可能性がある。自分より幾分低い位置から長い前髪の間の瞳が覗く。その顔には驚きも感嘆も見当たらない。いつも通りの無色透明である。
「……これは、まさか。お会いできるとは。お買い物ですか?」
 驚きはしたが、この方に会って驚かなかったことは数えるほどしかないために、すっかり慣れたものだ。動悸を無理矢理にでも押さえつけて、平常の血圧で無難な答えを返す。誤魔化せているとは思えないが。
「まあ、そんなところだ……」
 感情の籠もらない質問に、体温のない返答が返り、通りには沈黙が落ちる。こういうときには猫は鳴かないのか。所在なく猫に視線を移したところで、興味がなさそうにそっぽを向いてあくびなどしているときた。
 彼がこちらに何かを尋ねるのは非常に稀だ。今だって、何をしにどこに向かうのかも聞くそぶりはない。興味がないというよりは、すべてお見通しなのだろう。いや、すべてをお見通しならば、すべてに興味がないと等価ではないか?
「よく、ロキがわかったな……会ったことはなかっただろう?」
 どこにも向かわない沈黙を導いたのは、彼の意外な質問だった。いつの間にか彼の腕にはサビ色の毛玉が大人しく抱かれている。考えた矢先からさっそく質問をされてしまったわけだが、思考をすべて読まれている(推定)のに尋ねる意図とはなんだ?そもそも、何を応えるべきだ?
 彼の顔を窺い見ても、答えは書かれていない。興味があるとは書いていないが、興味がないとも書いていないのだ。
「いえ、その……特徴は存じていましたので、当てずっぽうで、声をかけてみただけでして……」
 散々迷って結局、嘘ではないが詳細な真実でもない中途半端な言葉になる。当てずっぽうの中には妙に確信めいたものが存在したのだが、そんなことを語っても冗長なだけだ。
 彼は一度も変わっていない表情のままじっと見つめ返してくる。こちらを知っていると同時に、世界のあらゆることを知っている故の、ごく平坦な関心。
「……」
 ゆるく、その目が細められる。咎めているような、呆れているような、そのどれでもない、ただ意味のない筋肉の反応であるような。
「……慎重が停滞を招いている。自身の望みに気づかなければ、打開する術はないだろう……」
 ボソボソと、聞き取りにくいはずなのに妙に耳に残る声が隙間風となって鼓膜に届く。仰々しい物言いとは裏腹に、自分の脳内には、ビルのモニターから聞こえてきた『ガードばかりで進展しないかも……時には大胆なアタックで振り向かせよう!』という脳天気な占いのナレーションが響いている。非常に無礼な脳内変換だ。
 どうかしている。アタックしたその先には何もない。
 ふう。ほんの小さなため息をついた彼が、いつもより出番の多い口を開く。
「僕は……この店によく来ている。取り扱う品が、どれも興味深い因果を持っている……それに、ロキも気に入ったようでな」
 脈絡なく言葉が紡がれている。尋ねていない上に、正直に言えば興味があるわけでもない情報。それでも、もうこの店を、通りを、似たような景色を見ただけで思い出してしまうだろう。
 やれやれ、という表情の彼が視線を寄越す。『次は君の番だ』と言っている。お手本を真似してやってみなさい、と。
 相手に知らせて、記憶に刻みつけて、そうしてアタックした先には、目の前のそれと同じしてやったりの顔があればいいのかもしれない。
 彼の中に存在を焼き付けるに足らずとも、その一片だけでも、
「にゃお」
 腕の中に収まっている猫がこちらを向いて鳴く。
「ああ……ロキに君から貰った餌の話をしたからな……。覚えてしまったんだろう」
 慣れない一歩を踏み出しかけた膝から力が抜けそうになる。すでに彼の中には自分に関する特筆すべき記憶があった。結局猫をどうにかこうにかすればいいのか。身も蓋もない。
 脱力がなぜか怒りに転じて、呑気に毛を繕う猫への対抗心に変わる。これを介さずとも記憶に残すことなどいくらでもできるのだ。猫に語っても意味のない間抜けな果し状を脳内で叩きつけ、
「あの、私は――」
 意味のない、間抜けな、自分を語って聞かせる。

あいのう+

「あれ、困ったおじさんじゃん」
「……ああ、君か。その節はどうも」
 見覚えのある子どもが、川沿いの階段に腰掛ける私の隣に無遠慮に座る。かつて見かけた格好から幾分か厚着になっている姿は時間の経過を感じさせる。
「猫見つかったの? よかったね」
 私が語っていない過去の猫探しの結末を、なんの躊躇いもなしに言い当てる。別にこの子どもに超能力があるとか、特別に敏いとか、統和機構を狙って日夜情報収集をする反組織のエージェントとかそういう話ではない。――いるのだ、私の足元に、件の猫が。
「お陰様で」
「役に立ったでしょ、ミョンプチ」
「まあ、なんやかんやで役に立ったような気がするよ」
「めっちゃ適当じゃん」
 子どもは大人しく佇む猫を撫でている。さすが野良猫を集めていただけあって扱いがうまく、猫も逃げずに喉を鳴らすばかりである。
「おじさん、猫に好かれるようになったんだ」
「好いてるわけじゃない、餌を出す人間と認識されただけ」
「ツゴーの良い男ってやつだ」
「そうだろうな」
 猫からどう思われていようとどうでもいい。ただ見かけるたびに寄ってくるようになったのは少々面倒だ。しばらくしたら飽きて帰るのだが。
「この猫おじさんのじゃないんだよね?」
「そうだよ」
「なんで外にいんの? 危なくない?」
「さあ、それはなんとも」
 気のない返事をしたはいいが、家猫は基本的に完全室内飼いが推奨されるという知識はある。地方ではまだ外と内を自由に行き来する飼い猫も存在するが、都心ではそうそう見ない光景だろう。
 猫への愛着はない上、自分もそしてあの方も世間体を気にする性分でもないだろうことから、あの方が良いのなら特に何か進言することもない。
 しかし、だ。
 この猫はおそらく、あの方が特定の住居を持たない故に外に出されている。ならば、一応この近辺に拠点を構えている自分が室内飼いにすると助言してはどうか?
 今はこれで満足しているように見えるあの方も、本当は室内飼いにしたいと考えているかもしれない。私がそのニーズを満たすことができれば、あの方にとって替えの利かない役割を担うこととなる上、猫目当てに会う頻度も増えるかもしれない。
「おじさん猫好きになった?」
「全然。ビジネスライクな関係だ」
「猫とビジネスすんの?」
「強欲を呼び起こす忌々しい悪魔でもある」
「悪化してんじゃん」
 睨んでもどこ吹く風の脳天気な毛玉に屈するわけにはいかないので、先程浮かんだ案は却下となった。

月と狸と夜明けまで

2024/8/24 上遠野作品Webオンリー『世界はきみのためにある2』にて発行
アンソロ『Quiet hour』より再掲
参さんの作品の三次創作です→ ミルクと狸と深夜二時

 ぱたん。次いで、ぱたぱた……。ドアを閉めて、小さな足音が遠ざかっていくのを聞いて、俺はにわかに身体の力を抜く。
「もういいぞ、ハリウッド」
 ソファの背もたれ越しに話しかければ、微動だにせずたぬき寝入りを決め込んでいたこの男も、隙間風みたいにため息をひとつついて、うっすらと目を開けた。
 あんなに眠そうにふらふらしていても、さすがに慣れない環境で朝までぐっすり、とはいかないらしい。完全に寝入ったと思っていた詩歌さんは、今度は喉が渇いたと言ってリビングに寄っては、ハリウッドの様子を審判さながらにチェックし、今にも落ちそうな瞼を擦りながら部屋に戻っていった。多分あと一、二回は起きてくるかもしれない。
「こりゃあ、今夜は大人しくしといた方がいいな」
「……やれやれ」
「眠れないなら寝かしつけてやるぞ」
 睡眠の必要がない――というか、やろうと思ってもできない俺たちの間で、それは何よりも明確な冗談だった。声色をわざとらしくしなくても誂いだと理解できる。実際、ハリウッドが緩慢に寄越した視線は、呆れとか鬱陶しさとか、そういうのを含んでいた。――が。
「?……なんだよ」
 感情の色が薄い瞳に、予想する反応以外のものが混ざっている気がして、思わず口に出してしまう。こういうとき、こいつ相手に表面を取り繕っても意味がない。俺が何を察したか、何を疑問に思ったか、よく磨かれたガラス窓もかくやと言わんばかりに筒抜けなのだ。能力というよりは、単にこいつが敏いだけなんだが。
 俺の問いには特に答えず、ハリウッドは狭いソファで器用に寝返りを打ち、横向きに寝転がった。俺はハリウッドの反応をもっと観察したくて、顔の見える位置を陣取る。具体的には、ソファ前方の床、毛足の長いラグが敷かれてあるそこに、無造作に座り込んだ。視線はハリウッドとほぼ同じ高さにある。
「……」
 遠慮のない視線を受けてもなお、ハリウッドはこれといった反応を寄越さないし、目も逸らさない。こいつ自身が遠慮というものを知らない視線を投げつけがちだから納得だが、そんな俺もハリウッドにずいぶん慣らされたものだ。真正面からじっと目を合わせても、これといった不快はない。
 ハリウッドは枕にしていない方の腕を、ソファからはみ出させるように投げ出している。所在なさげにしていたそれを、掬い上げて握りこんでみる。突然の接触にも関わらずハリウッドは反応を示さないし、俺も特に反応を期待していない。リビングルームに満ちる大気はいつまでも穏やかだ。俺たちの心臓は波打たないのだから、そんなもんかもしれない。
「子守唄でも歌うか?」
 そんな台詞にも関わらず、自分から出てきた声は殊の外真面目くさっていて、からかうような音が乗らない。ハリウッドはまた静かに瞼を下ろす。これは、聞きたいってことか?こいつはいつまでも、俺に伝えることをサボる。しかしまあ、月光も綺麗に差し込んでいるわけだから、今日くらいはいいだろう。甘やかしている自覚は正直なところ、あるが。
 歌い出しがわからなくてメロディだけ少し口ずさんで、思い出したところからぽつぽつ歌ってみる。古い子守唄だ。この現代には使われない言葉もいくつかあって、俺にとってももう耳馴染みがあるとは言えなくなってしまった。それでも、これしか覚えてないんだから仕方ない。
 少し歌い進めて、喉奥からくつくつと愉快そうな声が聞こえる。ソファの上、月光の下、俺の右隣、死んだようなたぬき寝入りが、口角を上げて声を立てて笑っている。これが野生のたぬきなら鳥にでも啄まれているところだろう。
「……お前は、ずっとその歌だな……」
「ずっと? 前にも歌ってたか?」
「ああ……覚えていない、か」
 口元だけでなく、薄く開いた目元まで弧を描いていて、途端に落ち着かなくなる。俺の覚えてない俺をこいつは覚えていて、それを見ながら笑っているわけだ。まったく、冗談じゃない。こいつが笑っているのは落ち着かない。
 歌うのはやめて、横たわったハリウッドの胴のあたりに頭をあずける。肉付きが薄くても、当然心音や脈動は感じられない。死体のようにひんやり冷たい、……はず。自分も同じような温度だから、正直何も感じてはいないのだ。
 サア、と流れる音がする。血流ではない、しかしたしかに流れている音が、こいつからは聞こえる。多分これは時間の音だ。速すぎて普通では捉えられない音が、停止された身体から鳴っている。どのように在っても、結局のところ時間は追ってくるということか。俺の身体からもきっと同じ音が鳴っている。空想の話だ。
「僕を……寝かしつけたあと……」
 月も口を閉ざす静寂で、掠れた声が時間を停める。いつの間にか閉じていた瞼を厳かに持ち上げ、声の主と視線を合わせた。
「二度と起きなかったらどうする……?」
 問いの内容に反して表情は穏やかだった。余裕があるというよりはなんだか、ひどく透明で――子供が星の動きを不思議がるような、そんな素直さがあった。
 こいつの目にも映らない、わからない、未知への不安さえ抱くことを教えてほしいと言っている。
「それじゃ、俺も一緒に寝るか」
 本当にそうなれたらどれだけ僥倖かと、握る手の力にこめて伝えれば、目の前の瞼が頷くようにゆっくり落ちる。
 生命の音がしないから、今の会話が最後かどうか確かめることもできない。かっこつけた手前声をかけるのも具合が悪いので、同じように寝たふりをする。実を言うと、せめてあと一回くらいは、狸寝入りに飽きてくれないかと思っているのだ。