第一話

――遠い。

 それはひどく遠い道のりだった。もはや歩みを進めているのかも曖昧になるほど、長く、虚しく、薄氷のような道であった。
 彼は今まさに、その足を止めようとしていた。諦めではない。視界を覆う濃い霧の中で、たしかに手繰り寄せた光にすべてを預けて。
 己が使命を終えたとき、彼ははじめて後ろを振り返る。決して平穏とは言えなかった道の中に、それでもなお幸福を見出したからだ。

 彼を形作る灯火がちらちらと揺れていた。満足そうに彼は笑って、瞼を閉じた。

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 わずかに重たい瞼を持ち上げる。背中に当たる硬いベッドの感触と、目の前に広がる無味乾燥な石造りの天井が、靄がかった記憶を鮮明にしていく。昨夜は簡素な宿を借りたことを思い出した。木材がはめ込まれた隙間だらけの窓からは、ひっきりなしに風が漏れていて、薄い布に包まれただけの小さい体を震わせる。光が差し込んではいないから、まだ日が出ていないようだった。
 体ごと左へ倒すと、自分が横たわっているものと同じ造りのベッドが二つ目に入る。その内の一つはもぬけの殻になっていて、同室の人物の不在を感じさせる。
 彼がよく夜明け前に目覚めては、一人で過ごしているのを知っている。どういう顔で、どういう静寂に身を任せているのかも知っている。彼の中の思いだけは、掬いきれていない。
 寝ているもう一人の彼を起こさないよう、音を立てず身を起こして、ベッドの縁に腰掛ける。再び眠れそうにはなかったから、蝋燭もつけないまま、夜明けを待つことに決めた。何も見えない暗闇は、心から安心できる場所だった。

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「そろそろこの街も発つ頃ではないですか、中枢」
ゴツゴツとした石で簡易に舗装されただけの道に、赤毛の青年が一枚の紙片を持って立っている。外見は幼く背丈も低いが、芯の通った声色と精悍な表情が、彼を少年と呼ぶことを躊躇させる。この辺りの人間には珍しい、黄色がかった肌色と顔の造りに加え、頭に巻かれた美しい青色の長布が人目を引いていた。
 紙片には街の周辺の土地や情報が手書きされているが、地図と言うにはお粗末な代物だ。青年は手元の紙片よりも、遠くの地形を眺めて方角を把握しようとしきりに視線を動かしている。
 彼の前に立っているのは、ひょろりと細長い青年と、まだ年端も行かない少年だ。青年は周囲の人間や建物の寸法と比べても、頭一つ飛び抜けて背が高く、体つきは折れそうなほど頼りない。長い髪も瞳もくすんだ色をしているため、細長いという印象以外曖昧になってしまう。少年は彼らの会話の中でも主張が乏しく、口数少なく明後日の方向を見ている。少し伸びている前髪で片目は半分隠れかけており、ぼんやりとした表情も相まって、どことなく存在感が薄い。
「久しぶりに腰を落ち着けて休めたからね。ハリウッドも良いかい?」
中枢と呼ばれた長身の男――ウィルドは、傍らに佇んでいる少年――ハリウッドに問いかけた。しかし、ハリウッドは虚空を見つめながら意識をあらぬ方向へ飛ばしていて、その問いに答えることはない。ウィルドは不思議そうな、しかし慣れたような表情で赤毛の青年――アルーンスルドゥに視線を向ける。アルーンもまた似たような表情で目を合わせ、わずかに首を傾げた。
 彼らが今立っているこの街は、首都の外れにある割には栄えていて、昨夜泊まった宿も、鍛冶屋も農産物の市場も盛んに営業が行われていた。大きな川のほとりにあるため、流域を用いた交易が活発になっている、とは昨晩アルーンが宿の主人から聞いた情報だ。また、近くには鉄鉱石の採掘場もあり、人が集まるべくして集まった土地だった。簡易で荒くはあるが、道も石畳のように舗装されていて、荷馬車と通行人が行き交う。昨日に比べ、道を歩く住民は圧倒的に少なく、ほとんど静まり返っている。そんな街の耳に心地いい静寂を聞きながら、青年二人は困惑していた。
「まだ、ここに留まったほうがいいのでしょうか」
「長いと日の入りまでかかるからなあ。のんびり構えて……」
ウィルドが滞在の予定を考え始めた途端、それを遮るようにハリウッドは走り出した。慌てて二人も追従する。土地勘などないはずのハリウッドの足は、躊躇いなく一点を目指していた。
 ほどなくして、三人は開けた場所にたどり着いた。巨大な穴を開けられたように、円を描いた建物たちに囲まれた広場に、主要な道路であることがひと目でわかるほど太い道が接続されている。地面には、形のそろった石が均等に敷き詰められて、美しい模様を描き出している。この場所で対外に向けた催しをするため、少しでも印象を良くする計らいだ。そして、広場には大勢の人間が集まって、太い通りの方を眺めて何事か話していた。外れの道の方に人がいなかったのはこのためだろう。
 ハリウッドはこの集まりに反応していた。小さい体を器用に人混みに滑り込ませ、あっという間に群れの中心部に向かってしまう。アルーンとウィルドはさすがにそうも行かず、人混みを少し無理に掻き分けて進んでいく。
(まだ随分若いのに、町長なんて――)
(父親よりはマシになってくれるかも――)
(こんなパレードを開きたがるくらいだ、どうせ――)
中心部に向かう道中で、ウィルドは立ち話の内容を聞いていた。どうやら町長の代替わりに際して、記念のパレードをするらしい。そして元町長の父親ともども、評判が良いとは言えないようだ。人々の表情は大半が仕方なく、あるいは小馬鹿にしたようなものばかりで、町長親子の人望の無さが窺える。
 ウィルドとアルーンは、やっとの思いでハリウッドの傍らにたどり着く。最前列にいるハリウッドは先程までのぼんやりした様子から一転して、険しい顔つきで、パレードが通るために開けられた道を見つめている。
「アルーン」
「はい」
ハリウッドの表情に思うところがあったのか、ウィルドがアルーンに声をかけると、アルーンは再び人混みの中に身を滑り込ませていった。旅の予定を話し合っていた時とは別人のように、緊張感が三人を繋いでいる。ウィルドはハリウッドの傍らに膝を付き、目線を合わせた。
「……中枢、」
押し黙っていたハリウッドは、そこで初めてか細い声で語りかけた。ウィルドは小さく頷き、ハリウッドと同じように前を向く。
「さあ、何が見える?」
「向かいに……大勢の人。空は晴れて雲一つありません。石畳が綺麗に整えられていて……道に、木の葉が四枚」
「その通りだ。それから、周囲には赤い服を着ている人が三人いるね?たしか以前の事例でも、赤い服を着た人物が近くにいた」
彼ら以外、その行為の意味を知ることはできない。落ちている小石の数や形、風が吹く方向と聞こえてくる話し声までを、記憶に刻みつけるように二人は列挙し続ける。教え諭すようなウィルドに対し、目の前の事象を逃すまいと真剣に耳を傾けるハリウッドの構図は、まさしく訓練の様子だった。しかしこれがなんの訓練になっているのかは、やはり外野にはわかるはずもなかった。
 やがて、集まった街の人々のざわめきがいっそう大きくなり、石畳に叩きつけられる蹄と車輪の音が聞こえてくる。パレード用の馬車の到着だった。パレードと言っても所詮町長程度の規模であり、ほとんど素顔のままの馬車で凱旋をするだけのつもりらしい。屋根のついていない開けた車体から、小太りで身綺麗な若い青年が身を乗り出している。どうやら次期町長となる男のようだ。周囲の空気は、より良い未来へのほんの少しの期待と、非日常への高揚と、何も望まない濃い諦めの色をたたえている。
「……鳥が、列を成して上空を……その下に、馬車、が……うう……」
馬車が訪れても変わらず観察を続けていたハリウッドだったが、次第に平静を失っていった。指先は小刻みに震え、目を見開き、焦燥に駆られるように体を固くしている。変化に気づいたウィルドが声をかけても、ハリウッドに聞こえている様子はない。ハリウッドは、この場において彼だけに感じ取れる恐怖に、身をすくませていた。
「うう……ううう……!!」
怯えを打ち消すために、ハリウッドは自らの奥歯を食いしばって、弾かれるように走り出した。突然のことで少し反応が遅れたウィルドだったが、その場で立ち上がり、ハリウッドが向かう方向を見つめている。厳しい視線の行く先では、今まさに事態が大きく動き出そうとしていた。

「やあ、みなさん!お待たせしました!」
広場に集まる町民たちの顔が見え始めた頃、次期町長たる若者は、馬車から身を乗り出して朗らかに挨拶した。恰幅の良い図体と、上質で艶のある服が、彼の生活を物語っている。のんきな表情には、自分が町民にどう思われているかわかっている様子が微塵もない。その態度に一切の悪意がなさそうなのが、町民にとってますますタチが悪かった。自分は優れた統治者になり、町民にも一目置かれるだろうと疑っていない。
 馬車は通りを抜け、広場の集団の合間を横切ろうとする。一様に白けた町民の中で、頭から大きな布をかぶった影が動き始めた。影は群衆に溶け込みながらも、重苦しい空気を引きずっており、人々は無意識に影を避けていた。影に迷いはない。すばやく、しかし勿体ぶるように、集団の最前へとたどり着くと、一気に駆け出した。

「――くたばれ……!」

走った勢いで、頭に被っていた布が捲れ上がり、下にあった顔が顕になる。それは痩せこけた少女だった。痛みきった髪の毛とひび割れた唇には、およそ生気を感じられなかったが、血走った目には確かに激情をたたえていた。ナイフを両手に握って、一目散に次期町長の元へと走る。次期町長の青年も、その供をしている老人も、町民たちもまったく状況を把握しきれていない。逃げられないのは明白だった。
 目を奪うような青が通り抜けたと思った瞬間、少女の持っていたナイフは天高く弾かれていた。びりびりと痺れる右手と、金属同士がぶつかる甲高い音が耳を反響して、少女は呆然と立ち尽くした。彼女の目の前には、同じようにナイフを握った赤毛の青年。しかし、その身のこなしは、ほとんど素人である自分では勝てるわけがないと、一瞬にして悟らせる力があった。赤毛の青年――アルーンは、少女と次期町長の間に立ちふさがる。彼の後ろでは、やっと事態を把握した次期町長の青年が、転げるように馬車を降りていた。
「ひ、ひぃ……っ!?」
慌てて逃げようと、すっかり抜けてしまった腰を支えて這いずっていた彼はしかし、さらなる脅威に怯えることとなる。へたり込む彼の目の前には、少女と同じように頭から布を被って顔を隠した、痩せた男が仁王立ちしていた。手には大ぶりのナイフを持って、今にも突き立てんとしている。
「しまった!」
アルーンが振り返るのと、男がナイフを振り下ろすのはほぼ同時だった。次期町長の青年とアルーンでは、若干の距離があり、間に合うか間に合わないかは五分といったところだ。アルーンは歯噛みしながらも、全力で走り出した。
 男が作戦の成功を確信し、次期町長が自らの死を覚悟したとき、その場の運命は決した。ナイフを取り落した男の顔面には、その頭よりもよっぽど小さい足の踵がめり込んでいる。馬車を踏み台に飛び上がったハリウッドの、勢いのついた踵落としが決まっていた。男は腰からその場に崩れ落ち、ハリウッドは受け身を取れず地面に転がる。
「無事か!?」
駆けつけたアルーンが慌ててハリウッドを助け起こすと、少し顔をしかめながらもハリウッドは頷いた。打ち身で痺れてはいるが、これといった外傷がない様子だ。ほっとするアルーンをよそに、いつの間にか近づいていた少女が男の肩をとって、路地裏の暗がりへと消えていった。もちろん、よろよろと逃げていく彼女たちを追いかけることなど容易かったが、アルーンはただ物言わず見つめるだけだった。
 地面に小さく蹲りながら震えている次期町長の青年を、町民たちは遠巻きに見つめている。ざわざわと落ち着かない様子で怖がってはいるが、青年に同情する声は聞こえてこない。
「大丈夫かい?」
町民たちを掻き分けて、ウィルドが事件の起こった中心部へとやってきた。声をかけたのは次期町長ではなく、アルーンたちの方だ。
「大丈夫です。……すみません、取り逃がしました」
「いいや、わかってるよ。わざとだろう?」
ウィルドはお見通しというように軽く笑んで、気にすることではないと付け加えた。立ち上がったハリウッドも一緒に、次期町長の青年を見やる。供の老人が彼を支えて、馬車に乗せていた。青年はやっと落ち着いてきたのか、馬車に座って深呼吸しているが、その顔は焦燥と疑念をたたえている。老人はウィルドたちを振り返ると、
「ありがとうございました。ささやかではありますが、お礼をさせて頂きたい。落ち着いたら私どもの館にご足労願えませんか」
と言って、深々と頭を下げた。面食らったように三人は目を見合わせて、馬車はその場を去っていった。
 こうして、怒涛のように過ぎ去ったパレードは、なんの成果も残さないまま幕を閉じた。

To be continued…